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[無いものの存在]_40:それはそれ、これはこれ。

前回のnoteで「わからないことをわからないまま」と書いたけれども、それは果たしてどこまで可能かとぐるぐる考え続けている。いつまでも言葉にはなり切らないことを考えることは、「無いものの存在」そのものだ。でもこの“不確実さ”を“確実”に伝えようとしてしまうことは、鼻から色々な矛盾を抱えていて、ちょうど良い塩梅なんてないんじゃないのか?と感じることもある。

いや、むしろ自分が直面している事態には、ちょうど良い塩梅と言い聞かせていくことしかないのかもしれない。
切断された足を知覚してしまうというとてつもない矛盾を引き受けるために、自分の体の輪郭はあっけなく解体されていく。そして右足には“不確実さ”が絡みつき、自分の存在を不可視な世界と接続させてしまう。ドーナツの穴がただの名も無い空白ではなく、「ドーナツの穴」として存在してしまうように、「無いもの」の存在について考えることで、その“不確実さ”は一見すると“確実”な何かになりすましていく。
自分の手元にある時には不定形なのに差し出そうとすると、急に相手に合わせて輪郭を帯びてしまい、強く、硬い何かに転じてしまう。

つまり切断という経験を自分なりに言語化することや、躊躇なく体の変化を楽しもうとすることが、「ポジティブな障害者」であったり、「福祉やアートを繋ぐ代弁者」のような鉤括弧に覆われてしまうことが正直不安なのだ。
その“確実”な手触りに甘んじて自分の一挙一動をネタにしてしまわないか怖いのだ。
不確実さのなかを漂い続けることは体力がいるから、「ポジティブ」でも何でも、確実に掴める足場があると手足を伸ばして休みたくなる。でもそれは自分が用意した足場じゃない。僕の不確実さを受け取った誰かが差し出してくれた足場だから、そればかり求めてしまうと“不確実さ”はきっと途端に枯渇してしまう気がするのだ。
勢いのある不確実な流れを掴み、確実な構造化することはきっと良いことがたくさんある。例えば組織のあり方やビジネスモデル、あらゆるハウツーがそうかもしれない。そこには流動的なものを分解して、複製可能な型を作って構造化する仕草が存在するんじゃないだろうか。
「無いものの存在」はきっとそれとは異なる引力を持つものだ。止まらずにすり抜け続けて不確実であり続けること、そしてその不安定さから多くを学ぶことだ。

不確実さに漂うことは昔から好きだった気がする。僕は思考の癖がふたつあるのだけれども、ひとつは二項対立の間を揺れ動くことが居心地がよいこと。もうひとつは、飛躍があること。
こうしたクセが身についたことと因果関係があるかはわからないけれども、そんな思考を支える思い出深い演劇作品のセリフがある。

それはそれ、これはこれ、割り切ってつじつま合わせ、合わなくたって、そんな生き方ありじゃない。
(キレイ〜神様と待ち合わせした女〜)

これは大人計画で、松尾スズキさん脚・演出の作品『キレイ〜神様と待ち合わせした女〜』のなかで、戦争が続く地域で大家族を率いて生き抜いている肝っ玉母ちゃん(初演は片桐はいりさん)が歌うセリフだ。状況が目まぐるしく変わる戦地で、自分の信念を持ちながらも、がんじがらめにならずにルールを更新しながら生きていく、たくましさと愛嬌が入り混じったキャラクターを浮かび上がらせていた。
ここで演劇論なんて書くわけではないけれど、大人計画の芝居にはこういう、ままならない現実を前にしてもどうしようもなくもがいて生きているキャラクターがたくさん登場していた気がする。そして登場人物には身体障害やそれぞれの生きにくさを抱えた人間や、そもそも人間じゃない異形の存在も登場していた。父親の影響でそんな作品を幼少期から見せられていて、「あ〜、こんな大人でも生きていていいだ」と子供ながらに救われる思いがした。

12歳で骨肉腫が見つかり入院している最中、姉が『キレイ』の歌をMDに録音して渡してくれたのを病室でずっと聞いていた。特に繰り返し聞いていたのが前述のセリフが出てくる歌だった。

当時、キリスト教の小学校に通っていた僕に、お見舞い来た教師が「神様が守ってくれているんだよ」と言ったことに不信感をいだいたことは以前もnoteに書いたかもしれない。
抗癌剤の副作用で体重が10キロも落ちて、髪の毛も抜けて、毎晩吐き気で胃液を吐いている12歳によくそんなこと言えるな、この痛みは自分の体で引き受けている現実で神様なんて入ってくる余地は無い、と。
でも、「それはそれ。これはこれ」。人には見えていないことがたくさんあって、全員の辻褄が合うことなんてないんだと思った。教師が絞り出した神様も、僕が毎晩対面する自分の胃液も、それぞれの精一杯の現実の中にあるものなんだ。

「それはそれ、これはこれ、割り切ってつじつま合わせ、合わなくたって、そんな生き方ありじゃない」という歌は“不確実さ”の極地のような気がする。なあなあな生き方に思えるかもしれない。でも、世の中には自分のルールや客観的な事実だけでは割り切れない当事者にとってのやむを得ない真実がある。
切断したはずの足を知覚してしまうことは、「切断したのだから無いのだ」という客観的な事実にも、「知覚するんだからまだ自分の足はある」と信じ込むマイルールも、どちらに転んでも辻褄は合わないのだ。だからこそ割り切れない不確実な真実のなかに、その人らしい「そんな生き方」があるんじゃないだろうか。
「無いものの存在」はそういう不確実なものであり続けたいと思う。だから誰かに「それ」と言われたら「これだよ」と言うかもしれないし、「これ」と言われたら「いやいや、それだよ」と返すかもしれない。そんな存在でいいのかもしれない。

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