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[無いものの存在]_10:目の前の人に幻肢がぶつかる

退院して1週間が過ぎた。
移動手段は車椅子から松葉杖へ。
年内はデスクワークのみで自宅待機のつもりが、乗るつもりのなかった電車に乗って何度か仕事や忘年会へ出かけた。
混んだらどうしようとか心配もあったが、幸い実家の最寄駅からの始発に乗れれば座れるので一本足で松葉杖でも苦労はない。

初めて昼間の電車に乗った時のこと。
始発電車の優先席に座って数駅を過ぎると車内が徐々に混み合ってきて、目の前に1人の女性が立った。
その瞬間とっさに、「右足がぶつかる!」という緊張感で全身ビクッとした。
僕の現在の幻肢はだいたい真っ直ぐに伸びており、椅子に座った状態だと足が前方へ投げ出されている。
切断前に人工関節が入っている時も膝の曲がりが悪かったので、電車とかでは目の前に人が来たらぶつけられるのではというストレスがあった。

今は左足を直角に曲げて深く座り前に飛び出した右足も無いはずなのに、目の前に立った女性に幻肢がぶつかってしまった。
ぶつかったというか、女性の身体に幻肢がめり込んでる。
入院中にはないシチュエーションなので、1人でドキドキしてしまった。
ただでさえ今までは身体を縮めても曲がらない右足が自身のパーソナルスペースを飛び出してしまう印象があり、今でもその身体感覚が強いので至近距離に人がいるとびっくりしてしまう。それに加えて曲がらない幻肢がくっ付いていると、目の前に人が立った瞬間思わず声を出してしまいそうになった。

自分の身体(幻肢)が他人に重なっているという感覚はとても不思議だった。入院中も物体に幻肢が重なることはあったけど、相手が人体となると肌が触れ合っているような緊張感がある。他者との間合いがより濃い密度で感じられた。
幻肢痛を感じた当初、幻肢を遠くまで伸ばしたりできないかを考えていたが、他人の身体と幻肢が重なる状況は、自分の身体が届かない場所へ身体感覚を飛ばすという意味では結構近い体験だったのかもしれない。
以前のnoteで統合失調症の人は自我が短縮した状態であるという話に触れたが、自身の身体イメージが周辺環境と干渉してしまうという点では似ているところがあるだろうなとも思った。

妄想や想像と幻肢はどう違うのだろうか。
痛みを伴うという点では身体的な影響も生じさせる幻聴や幻視も違いはなさそうだが、自分の知覚を超えて感覚を鋭敏に働かせる想像力は切断者でなくとも持ち合わせている。
例えば僕はアートは「生きるための術」のひとつであると思っており、その思いはこれまで携わってきたアートプロジェクト、近年参加する福祉と芸術を横断したプロジェクト、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの潮流などからより強くなってきた。
そこにはまだ規定されない価値観や社会の中で不可視にされた人々、白黒のつかない多義的な議論に寄り添い続けるアーティストやキュレーターの姿があった。それは、まだ無い/ここに居ない/見えない存在を想像する技術を磨く人々のようにも思えた。「無いものの存在」という出発点はそこにある。だから幻肢を観察することも、コントロールしてみようとすることも、その思考や想像力という技術の扱い方は基本的に自分のキュレーションの技術に援用することができないかと考えている。

そういえば退院後、幻肢痛が和らいできたころに断端に幻肢痛に通じる筋があることを見つけた。その筋を触ると幻肢にビリビリが走る。リハビリのために断端を動かし過ぎて筋肉痛気味というのもあったのかもしれない。
幻肢痛の原因として切断された神経からのフィードバックに齟齬が生じるというものが考えられるらしいので、断端と幻視が残った神経で繋がっていてもおかしくはないのだろう。
でも今は仕事などやることも多く、気が紛れる時間が多いので幻肢痛は和らいできたように思う。夜も少しずつ寝られるよになってきた。今はなぜか食事をしている時が一番辛い。
幻肢痛は薄れ、幻肢も以前よりも少し短くなった気がする。(幻肢は徐々に短くなって断端に吸収される人が多いらしい)
意識して幻肢を感覚できるわけではないので、今の感覚は忘れないうちに記録しておきたい。

義足は予定通り進めば1月の2週目に仮合わせを行える。
うまく幻肢と合体してくれる義足を見つけよう。

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