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[無いものの存在]_13:右足を環境に同期させる

退院して正月休みも開けると、日常生活はあっという間に過ぎていく。
切断後も変わらず休みの無い日々を送る中で、身体は正直に新しい発見を重ねている。

1月10日に最初の義足は一旦組んだものの、まだきちんとリハビリも終えていないので使用は自宅内のみ。仕事へ行くのは一本足で松葉杖が続いていた。移動は億劫ではないのだけど、久しぶりに何週間も松葉杖をついているので腕に少し筋肉がついた。足だけじゃなくて、こういう変化に気がつくのも身体と向き合うことである。

変化したのは自分の肉体だけじゃない。
以前、電車の中で幻肢が目の前の人に刺さったということを書いたが、膝の人工関節が曲がらない状態の足が付いていた頃に比べると、周囲の物と自分の距離が劇的に変わっている。

この写真のように、特に座った状態でこんな目の前に物や壁が来ることなんて無かった。些細なことに聞こえるかもしれないが、これが自分にとってはとても新鮮で、危機感に似たようなドキドキさえ感じることがある。これはまったく想像もしていないことだった。
他にも、お腹の中の赤ちゃんのように身体を丸めることができるようになったという変化もある。人工関節の足は自分の身体じゃないような感覚がいつも付きまとっていたのだが、身体を丸めて縮こませても右足だけ中心にまとまらないので、自分との心理的な距離も縮まらない一方だった。それが今では思う存分ぎゅーっとまるまることができる。
多分、まるまって自分の身体を自分で包み込んであげることは、身体的・心理的に自己治癒の効果があるんじゃないだろうか。曲がらない足があるのと無いのとではその違いはとても大きい。
足を切ったことに目が行きがちだけど、肉体の変化は思いも寄らないところにふつふつと現れるものだ。

そして何より、今日現在の大きな変化といえば、1月21日から義足のリハビリのために専門施設へ入所したことだ。
当初は外来に通いながらリハビリをする予定だったが、今後の仕事への復帰や身体の状態を見て、早めに義足での歩行を習得したほうが良いだろうとの判断で入所を決めた。
ちょうど色々な仕事が重なってしまい寝不足続きのまま迎えたリハビリ初日。午前中に診察などを済ませた後、昼食は施設内の小さな食堂で入所者みんなで食べる。現在は僕を含めて8名ほどが入所している。ひたすら身体を動かし、みんなでご飯を食べる。なんだか部活の合宿感が凄まじい。

当たり前だけど、リハビリは単に歩くだけじゃない。PTの方が断端の筋肉のつき方や、歩行に必要なポイントを一緒に探ってくれる。僕は断端の両側の筋肉がまだ少し弱いらしく、そこを意識できる筋トレを教わった。
平行棒の前に立って、義足だけで体重を支えながらゴムチューブをつけた左足を水平に右足へ寄せる。ただこれだけの運動でもじんわり汗をかく。PT曰く、単に筋力をつけるだけじゃなく、どこの筋肉を使うかを身体に教えてあげる必要があるらしい。前回「義足は乗り物」と書いたが、まさに初めての乗り方を教えている感じだ。こんな筋肉を意識するなんて僕も頭でも考えなかった。2日前から実習で来ているという学生の子に「今こんな感覚がするんだよ〜」「人間の身体ってすごいね〜」と二人で驚きながらトレーニングを続けた。このトレーニングの後に歩行してみると、明らかに歩く時の意識が変わった。やっぱり身体ってすごい。
初日の夜、18:30には夕食を終えて部屋に戻り仕事をしようとPCを広げたのだけど、仕事が忙しかったため連日の寝不足とリハビリの疲れで19:00前にはベッドに倒れこみ朝まで爆睡してしまった。この夜は2本もオンラインで打ち合わせが入っていたのに完全にすっぽかしてしまった。(ご迷惑をおかけしたみなさんすみません...)

そして朝食は7:30。
普段の生活ではあり得ない生活リズムに身体がぴしゃんとする。(いつもだと10:00に起きて朝は食べない。24:00ごろ帰宅して夕飯がざらだ)そんなリズムも含めて自分にとっては強化合宿だ。これで日本代表だったらさぞやる気が出るのに。

2日目のリハビリは前日よりもさらに安定して歩けるようになっていた。まだまだふらつくこともあるけど、どこに注意を注ぐかが昨日よりも身体が理解している。
その後さらに感覚を掴むきっかけになった出来事がふたつある。ひとつは隣でリハビリをしていた方がデジタルのメトロノーム(?)で、歩くテンポを一定にする訓練をされている音が聞こえてきたこと。もう一つはyoutubeにアップされている義足の歩行の様子だ。(色々あるので検索すると面白いです)

歩行のテンポ。リズミカルに歩く男性。
...そうか、音楽に乗るように歩くといいんじゃないだろうか。
以前も紹介をしたけど僕はHIPHOPが好きだ。だからビートと義足乗りながら、Hey ! What's up な感じで歩けばいいんだと身体のスイッチを入れてみる。するとやはり自然に体重を義足に移動させられる。今までは目の前の鏡で身体がブレていないかを注視し全身が緊張していたのだが、散歩だと思った途端に身体の運びが軽くなった。

目の前に迫る壁も、自分を抱くことも、リズムで解きほぐれる歩行も、身体のアクションとリアクションの絡まり合いがある。でも切断した右足にとってみれば、自分自身の身体も含めて周囲の環境との同期が完了していない。壁との距離感や、自分との心理的距離や、義足の乗り方で感じ取るリアクションから必死に右足自身の輪郭を掴もうとしているような時間だ。

そして、一歩一歩訪れるこうした変化の共有はなかなか難しいとも感じた。
僕がこうやって幻肢痛をきっかけに自身のことを語ることができるのも、そもそも切断自体をポジティブに捉えているのも、18年前の発病からの経過があってこそだ。通常は「切断」は「障害者になる」ということと見られるのだろうが、僕の場合は「切断」によって「出来ることが増える」という状況だった。生身の右足を失う代償はもちろんあるが、身体機能は向上することが多かった。
でも、ここのリハビリに集まる人はそれぞれ色んな理由がある。どんな理由かはわからないけど、とりあえず足が無くて義足の練習をしているということは辛うじての共通体験に見えて、その体験ですら個々に違いがあって一元化することは難しい。
今、特に現代アートに関わる人たち(だけではないが)の中で、社会の中にある「分断」はひとつのキーワードと言ってもよいだろう。分断された人々を、、、社会の中には分断が、、、色々な言い回しで分断を自明のものとする文章を見聞きする。そこにどんなリアリティが宿っているだろうか。
別にリアリティを盾に問い詰めたいわけじゃない。一応人生の半分以上を”障害者”として生きてきたので、マイノリティ性が暴力になり得てしまわないか気をつけてきたりもした。
だから、きっとそこにはその人なりのリアリティが宿っている、と、信じてみている。それは自分自身への慰めとしても。
今、このリハビリ室の人達に、僕が関わるアートのリアリティは正直な顔をできるだろうか頭によぎった。

どんな理由で両足を切断したのかは知らないけれど、そのメトロノームで訓練をしていた人はHIPHOP好きだということはリハビリ室で教えてくれた。

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