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[無いものの存在]_42:語ることに躓きながら

「義足の発芽」と名づけた本義足制作もやっと終わりが見えてきました。
制作を始めてから色々な人に「もうすぐ完成します!」と言っておきながら、随分と時間がかかってしまったのは何か技術的なトラブルがあったわけではなく、僕が作ることを急がなかっただけのこと。ある方には「義足を完成させたくないのではないか」とも言われてしまいました。
確かに自分が義足を完成させてしまうことをどこかで遠慮していたのかもしれません。「発芽」と名づけた理由も、叶うことなら自分の意志に関わらずに勝手に出来上がってくれたらという願いが込められていたようにも思えます。でも、実際は自分たちで手を動かさなければこのややこしい義足は完成しません。果たして完成するとどうなるのか。きっと今より歩きやすくなって生活もいくらか楽しくなるのかもしれない。だったら早く完成させて新しい義足に馴れた方が良いだろうに、どうも自分が音頭を取って「えいっ」と進めることに後ろめたさがあるような気さえしていました。

『無いものの存在』を書き始めた理由のひとつに、フラジャイルなディレクションのあり方を模索したいということがありました。だから極端な想像かもしれませんが、本義足も自分の一挙一動に関わらずに出来上がっていってくれたら悩みは少なかったのかもしれません。自分の決定だけでなく、様々な微風が入り混じることで物事が進んで欲しかったのでしょう。でもそんな思惑とは別に義足を完成させなければ、義肢装具士はじめ各所に申し訳ない。いよいよ最終工程に進むところです。

義足が完成してほしいという思いと、自分で義足を作りたくないというわがままな葛藤。または、物事が進展していくことへの漠然とした不安みたいなものが身体の中にどよんとしています。
最近気がついたのですが、そこには実は我が強い自分への負い目があるのかもしれませ。

我が強いということを考えると、いつもポイ捨てが出来ないということを思い出します。ポイ捨てをしないなんて結果的に良いことだとは思うのですが、模範的な性格だと主張したいわけではなく、単に自分の手垢が付いたものが自分の知らないところに行ってしまうのが釈然としないからです。自分のものは自分で落とし前を着けたいという気持ちになってしまいます。他にも話し合いの場ではついイニシアティブを取りたくなってしまうし、ゲームには勝ちたい。人に仕事を断ることや、誰かに仕事を振り分けることが苦手で、つい自分で引き受けてしまう。どうしても「自分がやったほうが良いものが作れる」と心のどこかで思ってしまっていることが多かったのです。負けず嫌い、と言えば済んでしまうことかもしれませんが、勝ち負けというよりは、目の前の物語に自分が関わっていたいと思ってしまうのでした。あるインタビューで「自分の体験は100%自分で味わいたい」と話したのですが、それは裏を返すと自分の人生への支配欲が強いということかもしれません。そういう自分に確かに負い目を感じる瞬間が何度もありました。
切断や幻肢痛という経験はそういう自分の中に、思い通りにならないことが植え付けられる出来事でした。だから切断後は自分の支配欲を緩めることを考えていたし、私生活や仕事におけるコミュニケーションも模索していました。自分が肩を入れて前に出るのではなく、俯瞰して状況を見て道を譲れる様にと。

キュレーターという肩書きは、アートの世界ではヒエラルキーを生みやすいものです。展覧会というシステムの中でアーティストやコーディネーターよりも決定権を持っていると思われがちです。でも僕はそういう構造がプレッシャーだったし、ヒエラルキーの中で自分自身が萎縮してしまいました。以前あるアーティストに「青木くんより腰が低いキュレーターを見たことがない」と言われてしまったこともあります。
特に30代になり若手でも居られなくなってきて、少しづつ色々なことを任せてもらえる様になってきた現在、自分が望まずとも引き受けてしまう権力構造にビクビクするのも正直なところです。
そういう構造に抵抗する方法は、フィジカルな負荷をかけることでした。例えば展覧会やイベントを行う時も、常に現場に居ようと努めてきたこともそのひとつです。もちろんキュレーターとしてアーティストが何に興味を持っているか、何を考えているか、なるべく近くで、同じ空気感を共有したいという使命感もあるし、そういう現場が一番楽しいと感じているから「とにかくそこに居ること」を大事にしていたのは確かです。しかし、そういう野心や楽しさとは別に、自分がキュレーターやディレクターと名乗ることで知らないうちに引き受けてしまう権力や、物事の細部まで見届けて自分の経験にしたいという支配欲に自分自身で抵抗するために、とにかく出来事の中心に居続けようとしたのです。つまり肉体を酷使することで、生まれているかは別としても自意識過剰になっているヒエラルキーや目に見えないプレッシャーを、肉体を酷使することで帳消しにしようとしていたのです。そこに居続けるというフィジカルな負荷による帳尻合わせです。

そんな自分からすると『無いものの存在』は、圧倒的な存在感があるものだなと改めて思いました。目には見えないけど、そこに居続ける存在。自分では直接的なコントロールができない他人のような存在。でも僕自身も幻肢も互いにひとつの身体という現場に居続けている。支配や被支配ではなく、ただ互いの存在感だけを感じあっている関係です。

本来ならばその関係は恐らく一生続いていくものですが、本義足の制作には完成という終わりがあります。だからそういう節目があることで、誰にも支配されずに不確かだった存在やその関係性に輪郭を与えてしまうようでとてつもなく不安なのかもしれません。このnoteで僕が自分の体験を言葉にすること、さらには言葉にすることを期待されてしまうことは、そういう節目を強く結ばせてしまっていたと思います。
そして「無いもの」の存在という語りを、本義足の完成という節目で代替して片付けてしまうようなことにならないかと。この義足が完成しなければまだたくさん「わからない」ことの中に佇んでいられたのに、とどこか寂しさも感じています。

そこには自分の人生への支配欲への抵抗でもあった『無いものの存在』という経験の言語化によって、人生の物語化が進み、客観的になることでまた支配欲が生まれてしまうという矛盾があるんだと思います。
でも、何かを表現するということは、そういう矛盾が付き纏うはずです。僕はアートとは、自分の想像を超えた存在を許容し、不確かさやあらゆる矛盾のなかでも切実に思考するための技術だと言ってきました。言葉にならないような主観的な経験について語ることは、そうした不確かさのなかに自分を拓いていくことだし、進めば進むほど不安や矛盾が語られる言葉の足を引っ張るかもしれません。それでも、矛盾さえ許容できることがアートという技術なんだと、自分の語りを通じて実感が湧いてきたところです。
最近のnoteではそんな不安について考えることが多かったけど、語ることに躓き続けながら、やっぱりそれでも表現していく。そうやってあちこちへ蛇行しながら本義足が出来上がっていくのがちょうど良い気がします。

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