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[無いものの存在]_32:アートとか医療とかっていうか、美味しい鍋づくりみたいな価値

断端が細くなり股やおしりがソケットに擦れて痛い日々が続いていたけれどなんとか12月中にソケットの調整だけ駆け込むことができた。
調整といっても擦れると思われる箇所にパットを貼って隙間を調整するだけ。
調整直後は随分と楽になったように感じたけれど、数日履いているとカバーしきれないところに痛みが残っていることに気がつく。
痛い所があり、対処する…なんて単純明快な作業なんだろうか。

馬鹿にしてるわけではなく、僕が普段聞いたり考えたりする「価値」に比べて、ここで生まれる価値があまりにも明快なので、こうして思い返してびっくりしてしまったのだ。
例えば僕が仕事で見聞きすることが多い「価値」と言えば、公的資金を使った事業の報告書で扱う入場者数や参加者の感想、その他採択された助成金の方針に合わせた根拠のある結果や、過去の美術の歴史や現在の文化的な背景と照らし合わせてその作品や展覧会が優れているかを議論するような時である。
ここで語られる価値とは、公的資金を扱うに相応しい文化事業であったかを、行政機関に向けて示すものだったり、作品や展覧会が美術の文脈の中で価値付けされるとそのアーティストの作品の値段が上がったりするようなものだったりする。単一の評価軸があるわけでもないので、当然もっと複雑な価値観がある。それは関わる人の立場によっても受け取れる価値が変わってくるものだ。業界内の「評価」はさておき、作品や展覧会を観た人たちにとってアートはどんな価値を生んでいるだろうかと考えると、評価される仕事をしたり、自分の評価が上がることとは関係のない次元にある話のような気もしてくる。

どうしてそんなことが頭を過ぎっているかというと、自分が幻肢や義足と向き合うことは、側から見てどんなに好奇心を煽るものであったとしても、大切なことは「自分にとっての価値」を大切にしたいと思うからだ。多義的な視野で見ればそこに様々な価値があるかもしれない。自分自身もそこにアートやキュレーションにおけるユニークな技術の源を見出した。しかし、その視野を拡大させて、いつしか自分と幻肢/自分と義足における信頼関係が伝えられない距離まで引いてしまってはいけない。きっとそうなった時に幻肢や義足は、自分のためではなく、誰かのための価値のために、コントロールの対象になってしまいそうな気がするのだ。

今作っている義足の価値はなにか

さて、「自分にとっての価値」というのも、実はよくわからなくなっている。冒頭で書いたような、痛みやストレスを解消することはきっと価値がある。

以前も少し書いたが、本義足の制作と合わせてソケットに貼り付けるオリジナルの布の準備も進んでいる。義足を作るときに好きな布を持っていくと、ソケットに貼り合わせて好きな柄のソケットの義足を作ってくれるのだが、僕はその布を自分で作ろうと思ったのだ。
①自分たちで育てた藍で染めた布。
②切断した右足の遺灰を混ぜた芭蕉紙(バナナの木の繊維で作る紙)。
③遺灰で作った顔料。
これらの素材を本義足に組み込むことで、失った右足(遺灰)や自分が踏む大地(藍染)を体に循環させようとする意図がある。なんだか歩き出したくなるような、そして義足自体も喜ぶようなものを目指して始まった。
最初はこれはアートプロジェクトのようなものでもあると思っていた。実際に制作にはアーティストも関わり、そのアーティストも「これは作品かも?」と思っていたそうだ。
しかし、先日沖縄の芭蕉紙の職人さんと打ち合わせをしながらふと「自分は一体なにをやっているんだろう?」という気になったのだ。誰もが作ったことがないようなものを作るので、染色や紙、縫製など様々な技術が混ぜこぜに動員されている。目指す先は義足のソケットに張り合わせるたった一枚の布。この義足を履けるのは僕一人。どうやったら良い布が作れるのか試行錯誤しているとき、なんだかもうこれが「アート」かどうかは関係が無くてなってきたと協力してくれているアーティストに話すと、その人も「作品」である必要はなくなったと言うのだ。
「アート」であることを手放し、ましてや「医療」的に機能改善するような布でもない。どこか儀式めいているような、でも関わってくれている人それぞれが切実に創造力を働かせている、この布づくり。どんな感覚に一番近いかというと、「みんなで美味しい鍋をつくって食べる」みたいなことなんだと思う。
「美味しい鍋が食べたいね」
「Aさんのところの豚肉は美味しいよ」
「いいね、じゃあAさんに豚肉をもらうおう」
「うちの豚肉にはBさんの白菜が合うだろう」
「いいね、いいね、せっかく良い食材が集まりそうだから、鍋自体にもこだわろう」
・・・・みたいに、ただ美味しい鍋を作ることが楽しくなるみたいな、そんな日常の行為なのだ。
これは別にお金をとってお店で出す鍋じゃ無い。プロフェッショナルな料理としての価値観で良し悪しを決められるものじゃないし、「食事はまだか!」とか、「あ〜、こっちの食材のほうがいいのにわかってないなぁ」とか言われる筋合いのものでもない。
出来上がった鍋を食べて「これ美味しくない?!」って楽しくなって、ちょっと仕事頑張っちゃうみたいな、そんなことなんだと思う。その切実さの強度はきっと高い。「アート」とか「医療」の中で、「美味しい鍋づくり」の価値観が図れるだろうか。きっとそういう価値もあるはずだと思う。でもそれはことさら「価値」として残らなくてもよくて、アートや医療の技術を通して、その人にとっての美味しい鍋をつくることができる、それが大切じゃないだろうか。

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