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[無いものの存在]_24:新しい移動と出来ないさについて

切断して変わったことのひとつが「行ける場所が増えた」ということだろう。

移動手段が大きく変わったからだ。切断後にリハビリに通うことや、その他の生活を考えて車を買ったことがひとつ。そしてリハビリを経て18年ぶりに乗った自転車である。

今までは都内の移動はバスや電車で目的地の近くまで移動してそこから徒歩で済んでいた。たまに仕事で大きな荷物を運ぶこともあったけど、スーツケースを引きずったりしてどうにか事足りていたし、なにせペーパードライバーだったので運転の機会は遠のくばかりだった。
言い訳では無いが歩くことも好きだった。
知らない路地を通ってみたり、トマソンを見つけたり、ちょっとベンチでぼっーとしてみたり。都内の二駅くらいならのんびり散歩したりして移動することもあった。
しかし、歩き始める地点までは公共交通機関を頼るしか無い。だから自分が知る街には空白地帯があった。それが自転車と車という選択肢をえた途端に自分の中の地図が大きく更新されていった。

移動手段のことを「足」と言うように、まさに「足」が変わった。義足は体よりも自転車に近いものだし、義足も自転車も車も移動手段の拡張装置に過ぎない。体への負担や操作性、掛かる費用が変わるだけなので基本的には「そこに行くまで何に乗りたいか」という選択肢なのだ。

と言っても気分だけで選べるわけではない。遠ければ車だし、近ければ徒歩である。しかしこれらを乗り換えていると、それぞれ体感速度の違いが移動中の考え事の仕方にも影響することをしみじみ感じているところだ。

当たり前なのだが、車は車線に沿って走っていく。急に曲がったりはできないし、今ならほぼナビに従って車線変更するばかりだ。
一方の自転車はもう少しマイペースに行き先の選択ができる。「次の信号を右だな、そろそろ車線を移そう」と「あ〜、ここの角曲がってみよ〜」の道の選択までの時間の使い方は結構違う。やはり後者のほうが気持ちに余裕があるのと移動を楽しんでいる感じがする。
歩き、自転車、車。それぞれ速度が上がれば上がるほど移動の選択のスピードも上がってくるので、考え事の仕方も変わる。
たぶん、歩くことも、自転車に乗ることも、車に乗ることもそつなくこなす人は当たり前に感じている違いなのだろう。30年目にしてこうも頭の回転も変わるのかと静かにびっくりしている。
というのも大学の卒論では人間の視覚行為について研究していて、その時は自分の「足」でしか視覚の移り変わりを経験していなかったことになるから、圧倒的に経験が足りていなかったなと振り返っている。

大事なのはここからで、このエッセイを書き進めて最近感じることは、「出来るようになること」ばかりに目を向けていたなということだ。
確かに「無いものの存在」について考え、その変化を行動に活かすことは楽しいし、アートについての向き合い方や、キュレーションの振る舞いに刺激をもたらしてくれる。しかし、少し貪欲に価値の転換を意識し過ぎていた気もするのが正直なところだ。もしかしたら出来なくなっていること、「足が無い」というその事実に見落としていることがあるかもしれない。またこれも転換になってしまうかもしれないのだけど、「あ〜、出来ねぇ〜」ということにもっと気がついてみてもいいかもしれない。

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