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[無いものの存在]_34:キカイダーありがとう

最近は少し寒い日が続くけど、ようやく暖かくなる気配を感じる。
ボロボロになっていく長ズボンから、そろそろ短パンが捌ける季節になってきた。

義足生活も既に1年以上が経ち、生活上の基本的な使いこなしや課題なんかは見えてきた。この間、このnoteのおかげもあって、色々な人と義足や切断について話をしてきた。僕が義足を見せびらかすものだから、周囲の人も話しかけやすくなったんだろう。どんな言葉を使うか、どんな態度で話をするか、自分のことを語ると良くも悪くも「ネタ化」してしまうので、気をつけていることもあるけれど、概ねポジティブなことだと思っている。

義足を見せると、大概の大人は「かっこいいね」というような反応を示す。「触っていい?」と手を伸ばしたり、構造や使い心地について聞いてきたり、義足は義足のまま話が進む。
しかし、この1年間、子供に対して真っ向から「義足」を伝えられた覚えが無い。大抵は子供に付き添った大人が「お兄さんの足はロボットなんだよ」というような説明をして、僕もそれに便乗して話を合わせてしまう。
「ロボット」「機械」「キカイダー」
あれだけカッコいいと自慢していた義足が安直なSF比喩にまとめられてしまうことにどこか勿体なさを感じないだろうか(キカイダーは悪く無い)。確かに「ロボット」とか言っておけばわかりやすいし、「足が無い」という現実が絶妙にズラされて、SF的な世界観で「ポジティブ」変換されていく。しかし大抵の子供は直面するSFにきょとんである。続く言葉といえば「どうして足が無いの?」と聞かれ、「病気になっちゃったんだよ」とか受け答えがあるのだけど、それは今は二の次だ。

義足ってキカイダーなのか?
僕はキカイダーを見てきた世代ではないけど、確かにキカイ(っぽい)のカラダなので、「お兄さんの足はキカイダー」でも、子供も大人もなんとなく了解できそうだ。でも義足はキカイダーでもロボットでもないだろと心のどこかで呟きが聞こえてくる。なんといえば良いかわからないけど、ふくよかな人をお相撲さんに例えるような安直さというのだろうか。容姿をイジるとは少し違うけれど、義足をロボットに結びつけてしまう回路には想像力の限界を感じてしまう。僕は自分の義足がカッコいいと思っているけど、キカイダーを超える言葉を尽くせないのだ。
たぶん僕から上の世代にとって「キカイダー」は見たことの有る無しに関わらず、なんとなく了解される「人」と「機械」の融合の想像力なのだろう。キカイダーにしろロボコップにしろAKIRAの鉄雄にしろアイアンマンにしろ、みんなのおかげで義足の説明があるいい感じのところまでは届くようになった。それは決して悪いことではない。キカイダーにはありがとうと言いたい。
でも、キカイダー達が居たが故に、義足の想像力はキカイのカラダで止まってもいるとも思う。義足は失った足“だけ”を補完しているわけではないはずなのに、もっともっと色々な可能性の中に位置付けられるはずなのに、義足は今まだ「キカイダー」から抜け出せていないのかもしれない。
30年後に足を切断して義足を使う人は子供に義足を「キカイダーだよ」って説明するとは思わない。その時、どんな言葉が生まれているのだろうか

「無いものの存在」とは、そうやってまだ無い未来の想像力を生み出す余白の在り処であり、可能性を作り出す場所である。

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