[無いものの存在]_31:体が無くなる可能性
切断してから一年が経った。
義足生活も10ヶ月ほどになる。
足があった時のことは過去のこととなり、違う体を手に入れたというインパクトの中であっというまに時間が過ぎて行った。
切断には前向きだと書いてきたが、思えば僕は長いこと「足は無くなる可能性がある」中で生活してきたのだ。
人工関節には感染症や怪我などのリスクがあり、常にその爆弾のような右足を見守らなければいけない。足の長さを左足に揃えるための脚延長手術を繰り返したことで膝の曲がりも悪くなり、ほぼ曲げられない足を取り回すのは日々小さなストレスもあった。そんな足を使いながら「この足はずっとは使えないだろうな」という予感がずっと頭の片隅に残っていた。
おじいさんになった自分がこの足で歩いている姿がどうも想像できなかったのだ。車椅子に乗っているのかもしれない。いや、そもそもそんな足腰弱るまで生きているだろうか。技術が発達して何か新しい選択肢があるのかもしれない。でもどれも現実味が無く、そしてそれらの選択はあまり気が乗らないものが多かった。いずれにしても自分の右足はいつまでも使えるものであるという保証は無いと思っていた。
自分の体にぴったりとくっついた右足だけれども、どうも自分のものじゃないという一種の違和感。
体が「ある」ことを知覚するのって案外難しいんじゃないかと思うのだけど、みんなは自分に体があることをどこまで当たり前に感じれているのだろう。何も殴られなくたって、寒い暑い、痒い、くすぐったいなど些細なものでも刺激があって初めて体の存在が意識に浮き彫りになるのではないだろうか。それは裏返せば刺激が無くても体が「ある」という安心感を持っているということかもしれない。その自信はきっと子宮にいるうちから長い時間をかけて「ある」ことを意識し続けて自分の輪郭ができあがっていく。
ある日突然足が無くなったら、そんな安心感が急に脅かされたことになるけれど、僕は12歳で発病後、18年間を費やして「無くなることへの安心感」を右足の皮膚の下に作り続けていたのかもしれない。18年間という時間は体があることの自信をつけ続けてきた12歳という人生よりも長い。体があることの安心感を、それ以上の時間をかけて再構築してきた。
そうやってつくってきた自分の体が無くなる可能性は、ネガティヴかポジティブかという二項対立ではなく、もっと違うものを見つけるために開かれた選択肢だった。その可能性がどんなものか、今ようやくわかってきたことは「安心して変容することができる」ということだ。
体にしろ、意見にしろ、自分が変わることは決して悪いことだとは言い切れない。足を切断することも、自分の考えが間違っていたと気がつくことも、自分自身を更新する分岐点としてちょっと横道に逸れてみる可能性を開いてくれる技術が僕の右足の皮膚の下に埋もれていたのだ。
去年右足を切断したことで、きっとその可能性が体の外に出てきて、自分の足以外にも使えるものになってきた気がしている。
体が無くなる可能性の中で醸成されていたものが、体が無くなった今では幻肢を依代に存在し続けているのかもしれない。
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