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[無いものの存在]_22:感染症のこと

緊急事態宣言後、僕もほとんどの仕事がリモートワークになり、自宅で過ごすことが多くなった。予定していた仕事の多くが延期・中止となったが暇かと言うとそうでもなくて、やることはたくさんあるし、オンラインミーティングで一日が終わることもしばしば。日々流れてくるコロナの情報も相まって心身共になかなか堪える。

そんな中、色々な機会に恵まれて挑戦している農作はとても気持ちが良い。トップの写真は4月上旬に植えたじゃがいもの芽が出たところのもの。(これについては喫茶野ざらしのnoteでも少し書いているので、ご興味ある方はこちらもぜひ。)

先日は畑づくりからしていて、鍬でひたすら土を掘っていたのだけど、僕の義足はウォータープルーフ仕様ではないので、あまり汚さないように気をつけなくちゃいけない。しかも足部は実はまだリハビリ施設から借りているデモ機なのだ。
3月末に受け取るはずのパーツの納品が4月頭になってしまった矢先、緊急事態宣言や仕事の都合でなかなか受け取るタイミングがなかったのだ。今は義肢装具士も自宅待機らしく、完成が先延ばしになっている。GW明けくらいかな。デモ機とはいえ使用には問題ないので生活に不便はないのだけど、コロナの影響で思わぬ影響を受けてしまった。

連日報道される「感染者数」という言葉を見聞きし、そういえば自分も去年「感染症」で足を切ったことを思い出した。
体に病原体が入り込み、病気になることを感染と呼ぶと辞書には書いてある。僕の場合はその病原体の影響で人工関節を刺していた大腿骨が溶け出しており、切断するしかなくなっていた。
昔、抗生剤を何度かもらったこともある。その時の検査では足にいる菌はそこまで酷いものではなくて、特別な対処をするほどではなかった。抗生剤を飲むと、足の傷口から出てくる滲出液が止まるので効いてはいたのだろう。
滲出液の処置も長いこと自分でやっていたのだけれど、何年も傷は塞がらず、そこから菌が入り、骨を溶かしていたのだ。
ちなみにこうしたケースで感染症が見つかって切断する人が周りで何人かいるので、骨肉腫あるあるでもある。

どうして感染するかという医学的に細かいことは分からないが、自己免疫力のない人工物に付着した菌が消滅せず長いこと体内に居座り、周囲の組織に悪影響を与えるのだろう。だから感染症が見つかると、手術で人工関節を取り出して消毒して戻すなんて場合もある。
それを聞いた時は、なんかバカみたいに単純な方法だなと思ってしまった。普通の掃除と変わらない。人工関節の感染症然り、コロナ然り、要するにまずは徹底して消毒しましょうということなのか。

長いこと感染してきた身からすれば、afterだのwithだのそんな標語の流行はとっくに過ぎている。そんな言葉より先に足にぽっかり開いた穴みたいな傷口から滲出液が出てきていたのだ。afterでもwithでもない、nowでガーゼが必要だ。何枚のガーゼを滲出液で染めてきただろうか。感染真っ最中だったのだ。
それが感染リスクのある人工関節が体内から無くなった途端、感染症はパタリと静かに無くなった。つまりは右足を切ったから。

骨肉腫の最適な治療が何かはわからない。
化学療法を耐え、感染のリスクを背負いながら人工関節に置換して生身の足を付けておくのか。でも、切断した方が割合としては生身100%になる。僕は切断したことで今はその100%がとても気持ちいい。まぁ、足は2本付いてた方が便利だろうけど。

コロナの影響で排気量が減ってヒマラヤが見えたとか動物が街に出てきたとか、地球単位で見たら人工物による影響が鎮静化したなんて見えるのかもしれないけど、主語を大きくすると見失うものもあるだろう。
だからコロナに対して「戦争」や「勝つ」という言葉を用いることは違うんじゃないかと思う。こうした比喩は人々を分断し兼ねないという懸念ももちろんなのだけれども、「感染に打ち勝つ」なんて終わり方がないことをこの体が知っているから。

最近やっている農作だって、土や植物は人間とは異なる時間軸をもっている。菌もまた無数の感染経路や発症確率を持つ不確実な存在ではないだろうか。
ただこちらは幻肢と違って見え無くはない存在だ。薬剤師が「薬は見えるところにしか効かないから」と言ったことの裏を返せば、ウィルスが見えてしまうから「打ち勝つ」なんて発想になるのかもしれない。

何が見えて、何が見えないか。
そこには、何を想像することができるか、という問いが隠されているのではないだろうか。
感染によって右足を失ったあとは、幻肢という想像力との共生が始まっている。

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