第四章 理想的な君主の姿

貞観十一年(西暦637)、特進(正二品身分)の魏徴が上奏文を奉って、次のように述べた。
「私が、古来の創業の天子や帝位の継承者、英雄を押さえた者や君主となって下々を統治した者を観察したところでは、皆、厚い徳を天下に広めようとし、その賢明さを日月と等しくしようとし、子孫が繁栄することや、天子の位がいつまでも伝わることを願うものです。それなのに、終わりを全うした者は少なく、国の滅亡が相次いでいます。その理由はなんでありましょうか。それらの願いを追い求めるのに、その方法が誤っているからです。『殷鑑遠からず』とはよく言ったもので、戒めとなる手本は近くにあります。
昔、隋は天下を統一し、その兵力ははなはだ強く、三十年余年の間に、その勢いは万里におよび、その脅威は異民族にまで轟きました。ところが、あっという間にそれを失い、ことごとく他人の有するところとなりました。
あの煬帝が、どうして天下の平安を憎み、国の長久を願わなかったでしょうか。どうしてわざわ残虐な政治を行い、国の滅亡を招こうとなどと思ったのでしょうか。
彼は、自己の国力の富強を頼みとして、後の憂いを考慮しなかったのです。自分の欲望のために天下を駆り立て、あらゆる財貨を集めて自分に捧げさせ、国中の美女を選びとり、遠方の珍貨を求めました。それによって、宮苑は飾り立てられ、高楼は高く聳えましたが、人民の労役は止むことがなく、戦争がいつまで経っても終わりませんでした。外見は威厳を示していても、内心は疑り深く、悪賢い者は必ず栄達し、忠義の者は生き長らえませんでした。上下は互いに本心を隠し、君臣の間で意思は通じず、人民は過酷な命令に堪えきれず、国内はバラバラに崩壊していました。ついには、天子の貴い身でありながら、つまらない男の手にかかって殺されて、隋の子孫は断絶して、天下の笑いものになりましたことは、誠に痛ましい限りです。
わが聖なる皇帝陛下は、その機に乗じて、苦しむ人民を救い、傾いた国の柱を正し、緩んだ綱紀を引き締めました。遠くは厳粛になり、近くは安逸となるのに一年とかからず、『残虐な者は教化し、刑罰を用いない世となるのには百年かかる』と言いますが、百年を待つ必要もありませんでした。いま陛下は、隋の宮殿・楼閣ことごとく住み、珍しい宝物はすべて収め、美しい宮中の女性は傍に侍らせ、天下の人民はすべて臣下となりました。もし、あの隋が天下を失った原因を手本とし、わが唐が天下を得た理由を思うのであれば、日一日を慎み、良いと言われても自惚れず、周の武王が殷の鹿台の財貨を焼き、楚の項羽が秦の阿房宮を壊したように、高大な楼閣は危険だと憚り、粗末な宮殿が安全であると思うべきで、そうすれば、神のような徳化はいきわたり、何もせずとも自然と国は治るでしょう。これが、最上の徳というものです。
もし、既にある宮殿を壊さず、そのまま使い、さしあたって必要のないものを取り去り、さらに減らしていって、豪華な棟屋には粗末な茅葺きを混ぜ、贅沢な石畳に土の階段を混ぜ、人民が喜ぶように使い、人民の力を使い果たさないようにして、宮殿にいる者は安逸だけれでも、宮殿を作る者は苦労するということを常に念じていれば、億万の民は子が親を慕うように集まってきて、万民は天子の恩沢によって寿命を全うするでしょう。これが、次に良い徳というものです。
もし、聖人といえども考えがなく、物事を全うするための慎みを行わず、創業の苦難を忘れ、天命はいつまでも唐室にあると思い込み、粗末な材木を用いる質素さをおろそかにし、壁の彫刻の美しさを追い求め、宮殿の土台をさらに広くし、元のものをさらに飾り立て、いろいろなものをそういう奢移をおし広め、満足することを知らなければ、人民は天子の徳を認めようとはせず、労役の苦しさばかりが広まることになります。これが、最も下手なやり方というものです。これは、喩えれば、焚き木を背負って火を消そうとしたり、煮えたぎった湯で沸騰を消そうとするようなものです。それは、暴でもって乱に代えようとすることであり、乱と同じ道を歩むものです。
そもそも、天子の政治に手本として見るべきものがなければ、人は怨みます。人が怨めば神が怒り、神が怒れば必ず災害が生じます。災害が生ずれば、世は必ず乱れます。世が乱れてしまって、自分の身と名誉とを全うした者は、少ないものです。かつて、天命が改まって新たな国を開いた王は、王朝七百年の命運を盛んにし、それを子孫に残し、万世に伝えようとしました。天子の位は得難く、また失いやすいからです。どうしてそれを考えないでよいでしょうか」

この月、魏徴は上層文を奉って述べた。
「私が聞いたところによると、木を成長させようとする者は、必ずその根元を固め、水を遠くまで流そうとする者は、必ずその水源を浚い、国の安泰を思う者は、必ず自分の徳義を積むものです。水源が深くないのに水が遠くまで流れることを望んだり、根元が固くないのに木の成長を求めたり、徳が厚くないのに国が治ることを思ったりするのは、いくら私が愚かだといっても、それが不可能であることぐらいはわかります。ましてや、明哲な人にはもちろんのことでしょう。人君が天子の重い位にいて、その地位をさらに高めようとし、無窮の美を永く保とうとしながら、安逸な生活の中で危うさを忘れ、奢多を戒めて倹約しようとせず、その徳を厚くすることを考えず、気持ちが欲望を抑えられないということは、根を伐って木を茂らせようとしたり、水源を塞いで豊かな流れにしようとするような者と同じなのです。
これまで、多くの君主は、天の大命を受けて、初めは大いに憂慮して天子の道が世に顕れても、ひとたび功がなった後には、みな徳が衰えてしまいました。初めは善くする者は誠に多いのですが、終わりまでそれを全うした者は非常に少ないのであります。天下を取るは易しく、それを守るはなんと難しいものでしょうか。昔、天下を取ったときには徳が余りあるほどだったのに、今、天下を守るのにそれが不足しているとは、どういうわけでしょうか。そもそも、天下を取ろうとして深く思い悩んでいる時には、必ず誠意を尽くして下の者を待遇しますが、すでに志を遂げてしまうと、情のおもむくままに傲慢になってしまいます。誠意を尽くせば、遠く異なった人々さえも一体となりますが、傲慢になれば兄弟でさえも疎遠になります。いくら厳刑で取り締まろうとしても、憤怒で脅しつけても、結局は人民はそれを逃れようとするだけで、君主の徳に懐こうとはせず、うわべは恭順であっても心から服しているわけではありません。『民が怨むのは、物事の大小ではなく人君の道理にある』というように、恐るべきは民であります。『船を乗せるのも水である』というように、君主は人民によって成り立っているのですから、深くそれを思って慎むべきです。『走る車を腐った綱で御するのは危うい』というように、人民を統御するのは恐ろしいものですから、よくよくゆるがせにしてはなりません。
人民の君たる者は、誠によく次のことを心がけるべきです。
すなわち、欲しい物を見たら、既に足りているとして自らを戒めることを思い、造営しようとしたら、止めて民を安逸にすることを思い、高い楼屋に憧れれば、謙虚に自らを処することを思い、水が満ち溢れることを恐れたならば、それは大河や海が低いところにあって多くの川を飲み込むからだと思い、狩を楽しむ時には、三方を塞いで自分に向かってくる獲物だけを限度とすることを思い、怠ける心配がある時には、初めは慎んで終わりを敬することを思い、自分の耳目がふさがれることを心配したならば、虚心に臣下の意見を受け入れることを思い、讒言を恐れたならば、身を正しくして邪悪な者を斥けることを思い、恩恵を与えようとする時には、自分の好みによって誤まった恩賞をしようとしていないか思い、罰を加えようとする時には、自分の怒りによってみだりに刑を加えようとしていないかと思う、ということです。
この「十思」をまとめ、行いの肝要とされる『書経』の「九徳」を広め、才能ある者を選んで任用し、善良な者を選んでその意見に従えば、智者はその智謀を尽くし、勇者はその胆力を尽くし、仁者はその知恵を広め、信義の者は、その忠節を致し、文人も武人も争って国のために馳せ参じ、君臣ともに心配はなく、遊行の楽しみに耽ることができ、仙人のような長寿を養うことができ、琴を弾いて何もせず、また何も言わなくても、自然と世は治ります。どうして天子が、自ら精神を消耗し、下級の役人の仕事を代行し、聡明な耳目を使役して、無為にして世が治るという大道を失う必要がありましょうか」

太宗は自ら詔を書いて、次のように魏徴に答えた。

「度々の上奏文を見ると、実に忠誠を極めており、その言辞は極めて周到である。上奏文を開き読んで飽きることがなく、いつも夜中まで及んだ。汝の情が深く国を体現しようとし、心を開いて私にそれを及ぼそうという義が重いのでなければ、どうしてこれほど良い意見を示して、私の及ばないところを正してくれようとするだろうか。
私の聞くところによれば、晋の武帝は後を平定した後は、すっかり贅沢に溺れ、政治はないがしろになったという。太尉の地位にあった何曾は、朝廷を退いてから、子の何劭に向かって、『私は皇帝に会うごとに、帝は国を治める遠大なはかりごとを論ぜず、ただ日常のありふれた話をするだけだ。これでは天子の位を子孫に残す者とは言えないが、それでもお前の身はまだ難を逃れるだろう』と言った。しかし、孫たちを指さして、『この者たちは、必ず乱に遭って死ぬであろう』と言ったという。果たして孫の何綏に及んで、刑罰の濫用によって殺された。前史は何曾を賛美し、先見の明があるとしている。しかし、私の意見はそうではなく、何曾の不忠の罪は大であると思う。そもそも臣下たる者は、朝廷に昇っては忠義を尽くそうと思い、退いては君主の過ちを補おうと思い、その美徳の成就を助け、その不道徳を救い正すべきである。これこそ、ともに政治を行う方法というものである。何曾は、三公の高位を極め、爵位も高い地位にあるのだから、直言して諌め正し、道を論じて時世を助けるべきであった。それなのに、朝廷を退いては陰口をたたき、朝廷に昇っては諫争しようともしなかった。それを
歴史書が先見の明があるとするのは、誤りではないだろうか。『盲人が転んだ時に助けてやらないのであれば、そんな付き添いはいらない』というのは、全くそのとおりである。
汝の述べる文章によって、私は過ちを聞くことができた。必ずこれを机の上に置いて、昔のせっかちな西門豹が緩んだなめし革を身に着け、のんびり者の董安子がピンと張った弓の弦を身に着けて、二人とも自分の性質を直した故事のように、私もこれを性格を正す戒めとしよう。必ず一方の失敗を他方で償えるよう、晩年までもそれを期するつもりである。良い臣下と安泰な世が、往時の舜の時代のことだけではなく、魚と水の切れない関係が昔の劉備と諸葛孔明のことだけではなく、今の世もそうであるようにしなければならない。良い意見を申し述べることを待っている。決して隠し事をしないように。私は、虚心坦懐の志をもって、謹んで立派な言葉を待っている』


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