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脱肉食をスピリチャルな観点から考えてみた

2年程前の話。
歳のせいか消化力が落ちて肉を食べた後にとても嫌な気分になることが多くなった。
それでうっかり「牛の肉」と検索をかけ調べてしまったのが始まり。

出てくる、出てくる、知りたくなかった情報の数々。
これらの100%が正しいことを伝えているとは思っていないけど、かなりのところは真実なのだろうと色々と調べて思った。

工場式畜産で育てられている牛や豚や鶏の現状。
私たちの食卓に毎日届けられている肉は、動物が死ぬ時の苦しみだけではなく、生涯を通して苦しんだ肉であるということを知る人は少ない。
虐げられ暗く狭い光の当たらない場所で生涯を終える。

一体このような畜産方法でしか私たちの口に入る手立てはないのか?
あまりの衝撃でそれから色々と調べてみた。
調べるほどに立ち直れないほどの衝撃を受けてしまう。

そこまで衝撃を感じるのは、たぶん同じ生き物として存在し、同じように感情も痛みも感じている者への哀しみ。
それと、このような扱いしか現代の世界でなされていない嘆きからだと思う。

かといってきれいごとでは済まない世界があるのも一応納得している。
自分だって知らなければ今でもそこに何の感情も持たずにいたと思う。

そしてそこに答えを出そうとするには、世界はあまりにも複雑な問題が多くある。
経済で有利になる人たちのことや、国や地域での古くからの食生活、個人の嗜好も。そして本当の実態を知らないという人もまだ多い。

自分にとっては衝撃的なことだった。
でも他の人にとってはそんなことよりも、考えなくてはいけないことが山ほどあるのかも知れない。

自分がもつ信念を他の人にもわかってもらいたいと思う。
けれど様々な価値観のある世界で生きる私たちは、そこに執着することが争いを生んできたというのも事実。

長い間散々悩んだけれど、今はこのような考えに落ち着いている。

世の中のことは起こるべくして起こっているということともう一つ。
どこにその焦点を当てるのかは個人で全く違うということ。

どちらかというとスピリチャル的な見方になるのかなと思う。
現実が厳しいので、そちらの方向から見ざるを得ないというのが正直なところ。

その視点から考えてみると、私は動物の痛みの部分に焦点をあてている。
よくよく考えてみると、動物は搾取されるだけの悲しい存在なのか?とも思う。
そんなことはない。

人間を慰め、そして可愛がられ、種を越えてお互いにかけがえのない存在となっている動物は地球上には数えきれないほどいる。
たとえ人間に触れることのない場所にいても、その本能からたくましく生きぬくことを人間に示してくれているものもいる。

どこに焦点をあてるかで見える現実は全く違うものになっていく。
動物に生まれた=不幸という定義にはならない。

これは嫌なことは見ないで蓋をしろと言うことではない。
幸せな動物もいるから、そっちはあきらめようと提案しているのでもない。

自分の在りたい世界を描くことは、そこに見えないエネルギーが注がれて周りの景色を創っていくこと。
そんな仕組みが宇宙には存在しているのだ。

反対に考えると、もし希望しない世界を思い続けることによって、それが自分の意に反して、実現化していくエネルギーに手を貸しているなんてことは絶対にあってはいけないとも思う。

最初はこんな考え方も、苦し紛れのように感じて腑に落ちていなかった。
今はこの件に関することだけではなく、あらゆる自分の目の前に映ることが、自分の思考を通して自分が見せているということがわかる。


有名なあの宇宙人、バシャールが言っていた言葉で印象に残ったものがある。

「動物の意識状態というのは、人間の心の争いや略奪などの投影である」ということ。
バシャールのような高次の人が住む惑星の動物たちは、もう他の動物を食べたりしないで共存しているらしい。

バシャールで理解できなけれは、イエスのような愛の意識を持つ人たちの惑星だと考えてみる。
人も動物も自然もすべてが調和して、そのようなことも起こりえるのかも知れないと妙に納得したりする。

できるならそんな未来が地球にも訪れてほしい。





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