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今年も皆様ありがとう

 今年が終わろうとしている。まもなく昨年になろうとしている。この時期は何故か気分が高揚する。時間は地続きだから、考えてみれば何かが大きく変わることなどない。それでも、なにか新しい縁めいたものが待っているんじゃないかという期待が、心を震わせる。
 お正月など昔の誰かが勝手に作った慣習だと言われたらそれまでだが、日本には四季があり、春夏秋冬の一区切りと考えれば、「よっしゃ、一旦一息つこか、まあまあ一周したんやしまたもう一回り始まるわけやからここでいっぺん切り替えていってみよーや」と言われるにはちょうどいいタイミングだと思う。年中常夏なんて国もいいなと思うが、そうなるとそれこそ代わり映えしない。「え?もう?あ、そうか。正月いうてるから、なんかしとこか。まあ、景色もなんも変わってないからあんまぴんと来ーへんけど、一旦。な、一旦な。みんな?聞いてる?ちょ、泳いでる人海あがってきてー。一旦な!」みたいな。誰が言うてるのかわからないが、こんな感じになってしまう。
 そう考えれば正月を迎えるにあたっては、日本は完璧な国だろう。


 幼少の頃、慌ただしい年末が好きだった。大掃除の為に足らない道具をバタバタ買いに行く時、意味もなく車に乗れてあわよくばレジ前のハイチュウを買ってもらえた。いつもなら駄目と言われるが父親も時間がないからごねられては面倒だとささっと買ってくれる。あるいは父親も高揚していたのかもしれない。家に帰ると窓を拭いたり換気扇を洗ったりする。届く範囲で窓拭きなどの当番を姉と僕にくれる。いつもしないことだから、こどもの僕達も何故かワクワクする。飽きたらやめる。止めても母親は怒らない。まだ途中やのに、と何故か笑っている。母親も高揚していたのかもしれない。
 並行しておせちの準備。三日前から、玄関に火鉢を持ってきておばあちゃんが黒豆を炊く。甘く煮える前の黒豆をつまみ食いするのが好きだった。いつもないものが玄関に現れ、消えない炭火に夢中になった。味のない豆がやけに美味しく感じた。どれだけつまみ食いしてもおばあちゃんは怒らなかった。おばあちゃんはいつも怒らない。おばあちゃんは高揚していなかったと思う。それは年を重ねた地に足をつけた祖母の通常運転に見えた。おばあちゃんがイエーイと言っているのは見たことがない。おばあちゃんは高揚していなかった。

 

 正月に向けての飾りつけも好きだ。何の為にしているのか分からず興味も無かったが、数年前に先輩に教えて貰いそこからやるようになった。意味がわかると好きになる。
 その年ごとに年神様というのがいらっしゃる。年末に大掃除をするのはその年神様を家に迎え入れる準備。大掃除が終わると(この家準備出来ましたよ、来てくださーい)の合図としてしめ縄を飾る。神様やねんからそんなんせんでも見えるやろという意見はあるかもしれないがそんな下等な意見は今はいい。都合の良いときだけ神様はすごいとみなすことが傲慢である。しめ縄を見た年神さんは、玄関の門松にまずやって来る。松のような尖ったものにお休みに来るらしい。そのあと、室内の鏡餅にくっつく。鏡開きがやって来て、その日に餅を割って、焼いたり炊いたり揚げたりして、各々自由に調理して頂く。そうすることで年神さんを身体に入れさせてもらい、その年の安全健康、あわよくば幸福なんてものを祈願させてもらう。
 この一連を聞いたときに、あ、絶対にしようと決めた。


 今高揚している。今年あった嫌なことだけ洗い流して、来年とびっきり素敵なことだけやってくるんじゃないかと調子のいいことだけ考えている。年末が「一発ビンタしていい?」と訊いてきても今ならいいよと言うかもしれない。どうせ来年がやって来てくれて、「まあ、去年のことやし、この痛みとっとくからさ、まあまあ堪忍したって」と言ってくれそうだから。今年の反省と来年の展望をメモして2024を迎えたい。

皆様に素敵な2024がやってくることを、大きな力に代わり勝手に代弁させてもらいます。


 

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。