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どうか怒らないで欲しい

 すごくいい映画を観たあとは、何日間かほろ酔いでいれる。始まりから結末までのストーリーというよりは、その瞬間に描写される感覚的なところを、今まで言葉に出来なかった何かを、見せて貰ったとき。贅沢なのは、そんな描写は一つでも充分なのに、稀に幾つも観れる時がある。そういった描写に出会う度、僕は結末を迎え、一時停止を押しては反芻する。幸せなことよりは、根っこにへばり付くミミズのような人間の部分を晒しているもの。可笑しみのある醜態。穿った見方をすれば、一見なくてはいいものに見えて、実質的に成長に欠かせない若かりし汚ないもの。
 自分だけじゃなかったという安堵と、場合によっては誇らしげな気持ちと、どうして先にそこをえがけなかったのかという悔しさで、たっぷり心を埋め尽くされる。
 小説や映画、歌はそんなものの宝庫だ。種類は選ばないといけないけれど、コントもそれに近い力を帯びていると想っている。
 
 芸人同士でシェアをしていた時があった。同居人が鍵を忘れて先に家を出た。電話がかかってきて「鍵持って出るの忘れたから、ポスト入れといて」と言われた。僕は出る間際、その鍵を見て、何故かポストに入れずそのままにして家を出た。そうしてしまった自分の中の理由はある。掃除を全くしない同居人に苛立ちが募っていたから、僕は困らせてみようと思った。ほとんどの共用部分の掃除を僕がしていたことにストレスがあった。結局その日、家に入れない同居人はファミリーレストランにいた僕のところまでわざわざ鍵を取りに来た。「ごめん、忘れてたわ」と僕は普通に話した。
 この瞬間の己の汚なさが忘れられない。後頭部をかあんと叩かれたような痛みを帯びながら僕は同居人と笑って話していた。

 中学生の時、提出しなければならないプリントを忘れた。家に連絡をして昼休みの終わり際に校門まで母親に持ってきてと頼んだ。母親を友達に見られるのがいやで、校内には一歩も入るな、と言付けした。家から歩いて十分程の距離。母親は校門の外に待っていた。プリントを受け取りありがとうも言わず踵を返す。母親はうっすらと化粧をしていた。誰に見られることもないはずで、それでもわざわざ少し化粧をしてくれた母親に僕は何も言わなかった。心のなかで申し訳ないと思っていても、あのときの僕には何も言えない何かがあった。

 自転車を誰かに盗まれ、近所のとあるおっちゃんの家まで余っている自転車を貰いに行った。家族で食べてと、袋に入った梨も頂いた。聞こえないくらいの「ありがとう」をぼそっと口にし、乗って帰った。友達が僕の自転車を見て、ボロいと笑った。僕は「そやろ、なんかおっちゃんに貰ってんやん。ボロボロやねん。ほんま最悪やわ」と馬鹿にされるのが怖くて、全ておっちゃんのせいにした。自分を守る為に友人に加担し、おっちゃんを馬鹿にした。僕はその自転車に乗って何度もおっちゃんの家の前を通った。その度に袋に入った梨を無愛想な学生に笑顔で差し出してくれたおっちゃんの顔が過った。「今年のは甘いで」と。

 親戚のおっちゃんの車に乗ったとき、ほじった鼻くそを車のシートの下に塗りつけたこと。誰かに貰ったどうしても使いようのないお土産の置き物をすぐに捨ててしまったこと。答えがわかっている質問を知らないふりをして訊いたこと。勝つとわかったファミコンゲームにアホなふりして誘ったこと。

 いつかの醜態が溜まっている。あげだしたらきりのない罪悪感が、澱となり積もっている。今更、謝ることも出来ず、行き場を失ってしまい、ゆっくりと落ち着いてしまったまま。
 
 そして、もっとひどいのは、いつからか大切にポケットに入れていること。

 暗い場所から、眩しいくらいに爆ぜる瞬間を、楽しみにしてしまっている。

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。