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胸騒ぎ

 その日は朝から妙な胸騒ぎがあった。決して悪い類のものじゃないもの。
 ばだばたする心を落ち着かせ、いつもよりも入念に歯を磨いた。ゆっくり時間をかけて髭を剃った。買ってから一度も袖を通すことのなかった千鳥格子のジャケットを手に取る。
 「すごく似合ってるよ、あなたっぽいようであなたっぽくない所が好き。」と言った彼女は、まもなく僕の前から去った。彼女が求めた僕っぽさは、一体どんな形だったんだろう。合わせる気などさらさらない。それでも僕の醸し出す「ぽさ」と内面に大きな隔たりがあるのなら、知っておくのも必要だと思った。でもまさに立ち去る彼女に声をかけ尋ねるのは、自分の人生にスマートじゃない気がした。
 家を出たのも束の間、行くあてなど別にないことに気づき、なんとなく歩くことにした。自宅から大通りを横断しそのまま路地に入る。大きな国道を横切ったそこは、嘘みたいに割れんばかりの静けさが広がる。少し歩くと、小さなスーパーが右手に出てくる。
 彼女はこのスーパーが好きだった。野菜や魚はいつも新鮮で、近隣の住民でいつも賑わっていた。
 「この街に溶け込んだ気がするの。私という人間が、この街の空気や匂いに同化する。周りからしたら、私がまさか他の街からやってきてるとおもわないでしょ。それがねドキドキするの。」と、笑って言ったその言葉に嘘などなかったはずだ。そうであり続けたいと信じていたと思う。彼女は、少なからず僕と送る生活を意識していた気がする。ぱちんぱちんと自分の身体をはめ込み、この街に馴染ませていく過程を楽しんでいるようにさえ見えた。だけど、幾分その形に彼女は合わなかったようだ。強引にはめ込んでいた身体も揺れるたびに皮膚は擦れきれていった。その痛みに彼女は苦しみ、見ている僕も辛かった。相手を思う気持ちだけが先行し、後回しにした痛みは、見えないところで積もり続け、ふとした拍子に追いついてくる。「今までありがとう」と書かれたメモ用紙が湿っていたのは気のせいだろうか。後悔ではなく、いっそ憎悪に似た涙であって欲しいとも想う。
 「たちばな」と書かれた喫茶店。いつもの奥の席に座る。マスターは僕が一人なのかどうかを確認し、やがて珈琲を出してくれる。やめられない煙草に火を点ける。
 あの時、すぐに連絡していれば、今の形は変わっていただろうか。僕の向いの席に座りメロンソーダを飲む彼女は笑っていただろうか。やめるといい続けながら吸い続けた煙草。全然いいよと言い続けた身の丈に合わない包容力。いや、本当にそうでありたいと思っていた。そんな男でありたいと。でも思えない日が少しずつ出てきた。その事をもっと伝えなければいけなかったのかもしれない。始まりの形があるとして、何も変わらないままそこに居られる人などいるのだろうか。変えようとしなかった僕、いや僕達に問題があったのかもしれない。時間を共にすることは、変化を恐れず、日々変わる些細な形にお互いをはめていくこと。その努力を怖がっていた。波風を立てぬ様、知らないふりをした。いつの間にか、沈黙が、僕たちの間に横たわっていた。

 お会計をして、外に出る。蓋をしていた想いに触れたせいか微かに身体が震えていた。それでも、少しだけ僕の「ぽさ」が分かったような気がして軽くなった。元来た道を歩き、路地を抜け大通りの信号を待つ。太陽は一番高いところにあって、今日がまだまだ終わらないことを告げている。何をしたらいいのかわからないまま、信号が青に変わるのを待っている。
 横断歩道の先に、黒い髪の女性が立っている。見慣れたワンピースを来たショートカットの女性。まだ距離はあるのに彼女の香りが僕の鼻を掠める。信号が青に変わり、さっきまでとは違う震えを確認しながら僕は歩き出す。今日はまだまだ終わらない。胸騒ぎが何だったのか確認しよう。そして煙草を吸おう。まずはそこから。何をしたらいいのかわかりかけた僕が歩き始める。
 
 
 
  
 

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。