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香ばしい朝

 もう少し寝ていたい気持ちを布団に押し込み、寝室を出る。リビングに入ると最近飼い出したわんこは、こちらに気を向けることもなく座椅子の上で眠っている。引き取ったわんこはもう九歳。はじめのうちはいつもそわそわしているように見えたが、三ヶ月たった今はこちらに危害がないとわかったのか、自分のペースを掴んでいる。外の陽光とカーテンを一枚隔てたこの部屋は夜の気配がまだ残っている。おはよう、今日もありがとうと声を掛け、一つ撫でる。面倒くさそうに薄目を開けてすぐに閉じる。来た頃より毛が柔らかくなったなと思う。台所の水道をコップに注ぎ一気に飲み干す。一食分ずつ小分けにして冷凍保存したわんこのご飯を、電子レンジに放り込む。十日分程をまとめて作れば、わんこの自炊は意外と楽で、安い上に食いつきも良くカロリーも抑えることができる。温まる三分程の間に、カーテンを開ける。部屋中余すことなく、太陽の光に照らしてもらう。窓を開け紫がかった空がまっさらな空気を持ってくる。鬱陶しそうにしているわんこを見て口角があがる。眩しくなったその光でわんこがゆっくり立ち上がる。前足をゆっくり伸ばし、身体をぶるると震わせる。間もなく温まる頃、わんこは電子レンジの下にきて辺りを嗅ぎだす。ウロウロと辺りを嗅ぎまわる姿を見ていると、本当に鼻が良いのか悪いのかわからなくなる。喉の奥でくうううんと泣き出す頃、電子レンジがチンとなる。温まったご飯をわんこの皿に移し替え与える。二日食べてなかった程の勢いで呼吸を忘れるように食べる。その姿を眺めながら、アイスコーヒーを飲む。ベロで隅に押しやられたご飯を食べにくそうにしているときは、指で掻き出し食べやすく手伝うときもある。食べやすく手伝うその指を待ちきれないわんこはもう舐めている。堪らず吹き出しながら、待って、という。アイスコーヒーが飲み終わるのを待ってもらい朝の散歩に出かける。
 わんこが来て、はじめのうちはバタバタと何をすればいいのか手探りのまま始まった生活。徐々に慣れ、安定し、プラモデルのような朝を過ごすようになった。説明書通りの順番に組み立てる朝が心地良い。
 この同じことの繰り返しの朝が、これから続いていくとおもう。
 素敵な映画で涙を流した夜、頭を揺らして腹を抱えて笑った夜、自分の大切な何かを汚されて腹がたった夜、根拠のない不安に襲われた夜、読みかけの本が面白すぎてこの話が終わらなければいいと思う夜。
 どんな夜があったとしても、眠った次の日、こんな朝がこれからずうっとやってくる。空は曇っていて光が差さない朝もあるだろう。雨が降り、窓を開けられない朝もあるだろう。それでも温め終わる頃、わんこは電子レンジの下にいると思う。これから暫くは。判然としない憂鬱さで頭が重い朝があるかもしれない。そんな時も、わんこは喉の奥でくうううんと鳴くだろう。そしてきっと同じところで吹き出してしまうだろう。

 わかった風な顔をして、同じことの繰り返しを嫌った十代。それもこの仕事を選んだ一つの理由かもしれない。
 でもそれは、向き合い方とそれをどこまで愛せるかだけの問題だった。僕はそもそもこの生活を愛しただけ。同じことの繰り返しなんて、外側から覗いた景色であり、内から見た景色は毎日違う。
 彼女はとびっきりのルーティンと香ばしい匂いを持ち込んでくれた。
 この愛おしい繰り返しの朝を、何度でも迎えたいと思う。
 
 
 
 

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。