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ズームせず何歩か下がれば殆どのことは許せる、とは想っているけれど

辻内智貴さんの小説の中に素敵な場面がある。

蝶が飛んでいる。それを一人の少年が夢中で追いかけている。虫取り網を手に持ってパタパタと追いかけていく。その少年は、もしかしたら気付かないうちに、お母さんに買ってもらった靴を泥濘の中にいれてしまうかもしれない。誰かの大切な何かを踏みつけてしまうかもしれない。でも、必死に追いかけるその少年を見て美しいと思わない人は居ない。

(何年も前に読ませて貰った本なので、僕の覚えている感覚の文章になっているのは、ご容赦してただきたい。)

ちょうどお笑いを始め、かと言って仕事もなく、ただアルバイトにくれていた頃。親の心配に目を合わさないようにしていた。誰かの結婚式があるなら、祝儀のお金など出せる余裕もなく、仕事だと嘘をついて断ったりもした。誰かの幸せを祝う余裕など無かった。俺の状況なんか知らんやろ、と苛立ちを覚えた事さえあった。でもそのたびに自分が酷く情けなく、身体が重かった。そんなとき、これを読んで、凄く楽になった。何かに向かって走っている自分をこの少年に強引に重ね合わせ、許して貰おうと思った。決して許して貰ったのではなく、楽になりたかった方が近い。俺は夢を追っているんだと壁を作り、虚勢を張った。アルバイトの給料が入って携帯料金を支払い、気持ちのいい洗濯をした時、素敵な映画を夜中見たとき、その壁から顔を出し、俺は頑張っていると叫んでた。実際のところ、沢山の人に迷惑をかけたから、許して貰えてたかはわからない。許して貰えるかどうかなんて、他人の見方次第でその都度変わる。

その人の経験と環境で、物の見事に見方は変わる。ただ、それが足りなくても、少しの優しさを持てば変えることができる。大きく一歩引いたところから見るか、レンズをグッと近づけて見るか。素敵なところを探すにはレンズは近く立っていい。でも、怒りに満ちた場合、何歩か下がって見たほうが少しどうでも良くなれる。

犬に追いかけられている男の子を見たら可哀想だ。その犬を憎いとも思う。でもその後ろに、その孫をにこやかにみているおばあさんがいたら、なんだいつものことなのか、あの犬に意外と危害はないのかって安心する。もう一歩ひいてみたときに、後ろでとんでもない怪獣が街を襲っていたら。あんたたち、そんな悠長にしてちゃいけないよってなる。後ろに下がれば現状が見えてくることがあって見方が変わる。
これは、仮に景色の話だけど、一人の人間にしてもそうだと想う。小言ばかり言うパートのおばさんも、厳格という字を引き伸ばして顔に貼り付けたような皺だらけの体育教師も、別のページをめくれば笑ってるし、お気に入りの服があるし、好きなおかずを残してご飯をたべている可愛い景色があるかもしれない。友達に嫌なことを言われた日というのは、たまたま朝から嫌なことがあったことがタイミング悪く衝突しただけのことかもしれない。僕たちはその瞬間に起きたことだけを掬いとり、判断する。そして、何日も積み上げた努力や、育んた愛情を、一秒で台無しににしてしまう時がある。そうならない為に、僕は、少し下がって、まあいいかと思うように努力をするようになった。何年もかけて。それでも腹が立つから、なかなかうまく行かない。

うまく行かないけど、たいていの事は、これで難なくやり過ごせると信じている。あとは、使いこなせるかどうかだ。

だけど、一つだけ、どうしても理解できない事がある。動画サイトで実際の感動のシーンを集めたものを見ていた。戦争で何年も離れ離れになっていた家族がようやく会えたときの抱擁。色弱の方が特殊なサングラスをかけて色の素晴らしさに涙した瞬間。帰ってこないと思った犬がひょこっと現れたある日。こみ上げるものがあった。その動画のいいねの数は数十万を越えている。隣を見て驚いた。バッドに三十回ほどの数が押されている。僕は基本的にいいねを押さない。知り合いのSNSなら押す。不特定のものにはよほど感動しても押さない。良くてもそうなのだから、バッド(呼び方合っているかわからないけれど)を押すことなど、無縁だと想っている。それを、わざわざ、バッドを押す心理。到底理解出来ない。そんな人の頭を覗きたい。ページをめくればどんな顔をして、誰とどんな話をしているのか。どれだけ後ろに下がっても、どんよりとした雲が垂れていて、他には何も見えない。一日でいいから、顔を隠してくれてもいいから、話したい。

そして、聞いたことを、考え方を、全部すっかりそのまま、コントにしたい。わからないことは、笑ってしまったほうが楽だ。

僕は押さないと言ったが、皆さんは、スキを押しまくってくれていいんだよ。

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。