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空が晴れてたら幸せだと想う奴、黙れ、五月蠅いと思ってた

 以前、なんばの若手の劇場の下に、ジュンク堂書店があった。時々、そこに立ち寄る時間が好きだった。今でも無くなってしまったことが残念で仕様がない。入って直ぐの新刊コーナーを覗き、それから作家毎に五十音順で区分けされている棚に向かう。心に余裕がある日は、詩集コーナーを見たりもしていた。心が満たされていて何もかもを肯定できる気分じゃないと、詩は読めない。少ない言葉で感覚的な物を書かれても、余程の優しさがない時じゃないと受け付けられない。知らない人の研ぎ澄まされた僅かな言葉は、刺さるくらいの共感がなければ僕には無理だ。それでもその頃買った谷川俊太郎さんの詩集「はだか」は、宝物になっているけれど。共感どころか、子供のまんまで書かれていたから。刺さるどころか、えぐられた。
 そんな風に本屋さんをぐるぐる回ると、時折目に飛び込んでくる言葉があった。「晴れているだけで幸せなんだよ」「涙がこぼれた、空が晴れてたから」「幸せと晴れの法則」心の底から嘘付け、黙れと想っていた。晴れているだけで人が幸せになれるなら、自分を全否定されているのと同じ気分になった。したいことがあるというこの状況はなんだろう。そんなもの必要なくなる。一日空を見て過ごせばいいのか。幸せを押し付ける常套句になっていることが腹立たしく思えた。なんて安い言葉だ。安いという料金が発生していること自体、怒りを覚える。金を払え。空がご飯を奢ってくれるのですか。
 その反面、空が晴れているだけで幸せだと思えたら、楽だろうとも考えた。見えない不安を背中に載せてぜえぜえと肩で息をして過ごす毎日に、ゆとりを与えられるような。そんな希望も見えた。
 
 家に帰り、洗濯物を干しながら出来るだけ自然に「空が晴れてるっていいよな」と同居人の守谷に言った。「まあ、はよ乾くしな」と返ってきた。
 言うのは止めた。無理しても仕方ない。

 あれから何年も経ち、僕は、少し変わった。
 今、僕は、「空が晴れてると幸せ」だ。
 だけど、空が晴れてる、という状況自体には別に幸せは感じていない。
 ただ、その状況が、日々の瞬間を随分心地よく彩る事を知った。空が晴れるおかげで、歩くのが気持ち良かったり、アイスコーヒーが美味しく感じたり、守谷の言った通り、洗濯物は早く乾き、なんなら太陽の香りをこびりつけてくれる。あと、龍の雲があるのも知った。知り合いの歌手の方に見せてもらった龍の形をした雲。伊豆で空を見上げた時に見つけた雲。月を飲み込みそうな特大の龍が浮かぶ写真を見せてもらった。直ぐに、インターネットで調べて、他にも沢山の龍が撮影されているのを知った。それからは、空を見る時間が増えた。写真も撮る。素敵な写真が撮れたら、SNSに上げたくなったりする。恥ずかしい。そうしていると、今見ている空は二度と同じものは見れないと改めて気付く。その瞬間の雲は凄い速さでその形を変えていく。太陽を浴びる事で身体に作用する良い影響も知った。何かに前向きに興味が湧くと、それに吸い寄せられる様に多くの情報が舞い込んでくる。調子のいい生き物だ。

 これを読んで、空を好きになって欲しいなど微塵も思わない。あくまで僕の状況だから。ただ、見つめ直したときに、よく目にしたり聞いたりするのは、貴方に寄り添う縁のある何かだと想う。好意がある無いに関わらず、発信してくる信号はある。それがどれだけ憎いものでも、本当に必要な何かはまとわりついてくる。

 ただ、断じて変わらないものもある。
「雨が好き」という女は、絶対に好きにならない。
雨の音に耳を澄ませ、サイケな音楽をかけ、体を揺らしひそひそと独り言を云う女が居たら、ベランダ側から窓をぶち破り、感覚的な詩集を大声で読んでやりたい。

(さっき言うた龍の写真やで)

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。