奇行
おばあちゃんが、おじいちゃんの骨を口に入れた。ゆっくりと。そうすることが決まっていたみたいに。その一連がとっても色っぽくて、父の背に隠れ目を細めてじっと見ていた。誰も気づいていないようだった。不自然な気配も、悪意がなければ美しい、と知った。
僕は、誰にも言わないことにした。僕が語ることで、おばあちゃんの行為を損なってしまう気がしたから。皆を納得させるほどの言葉は僕にはまだ無い。
おじいちゃんは膵臓やら肝臓を悪くして、涼しい夏の朝、亡くなった。僕は小さかったし、おじいちゃん子じゃなかったのもあったから、そんな感覚でいた。
それでも、おじいちゃんが亡くなってからの三日間、娘にあたる母親の奇行は流石に忘れることはないと思う。
母は、僕たちの通う学校と幼稚園に勝手に連絡を入れた。暫く休ませます、と。親公認のずる休みは僕をわくわくさせたけれど、すぐにそんな喜びもぱちぱちはじけた。
母は普段我慢していた菓子パンを次から次へと食べた。僕たちには手の込んだ料理ー殆どが煮込んだ和食で出汁から手間をかけたものばかりーを何品も作り、テーブル一杯に並べ、食べさした。そして、随分優しかった。母親は、料理に手を付けず、パンばかり食べていた。朝から夜まで。僕の姉も弟も只事ではない空気を感じ取り、出来る限り食べた。普段は要らないとはっきり言う弟も、小声で「このトマト食べて」とこっそり伝えてきた。父親も大人の胃袋を母に見せつけるように口いっぱいに頬張った。母を除いた僕たち家族一同は、黙々と胃に詰め込んだ。それでも並べられた量には敵わないと、母親は残ったものをすべてすっかり捨ててしまった。機嫌を悪くするでもなく。当たり前に。そして夕食に向け、また別の品々を作る。
三日目の夜、僕たち兄弟は姉の部屋に集まった。小学校三年生の姉は一人部屋を持っている。
「なあ、これっていつまで続くん」
背中を丸めていないと何もかも出てきてしまいそうな僕は、胃のご機嫌を伺いながら言葉を吐く。
「知らんよ、あんた訊いてみてや。学校はよ行きたいわ」
姉は、昨日からいよいよ原因不明の汗が止まらない。
「僕明日言うわ。もういらんて」
いつもの遠慮ない弟に戻っている。五歳の向こう見ずな逞しさに、僕たちはたじろぐ。
「いや、それはやめとき」
姉が止める。
「なんでなん。皆いややん。」
「いややけどさ、今はなんか仕方ないやん」
「じゃあ、なんで今話してるん?こんなこと言うため?こんなとこでお母さんの悪口言うてるんも嫌やねん」
澄みきった正義に、僕たちは言葉を失くした。幼稚園児に教えを受けるとは。僕は弟と一緒の部屋に戻り電気を消した。相手を推し量ることで、時に本物の優しさを隠してしまうことになる気がした。気づいて無い筈の弟に教えられた。
次の日の朝、恐るおそる下に降りテーブルを見て、僕たちは驚いた。テーブルの上には、トーストとハムエッグが人数分並んでいた。戻ってきた平凡さが眩しく見えた。平然を装う僕たちに、父親がこっそりウインクする。当の母親は忙しなく動き回り、「早よ食べや。遅刻するで」と元の通りだった。
不思議な三日間は終わった。父も姉も僕も、遠慮ない弟さえも、母親にその奇行について訊ねる者はいなかった。そうしないほうがきっといい気がした。
その週末、学校から帰ってくるとおばあちゃんが家に来ていた。キッチンテーブルで母親と話す二人を素知らぬふりでやり過ごす。僕たち兄弟は自室には行かず、リビングで肩を並べてテレビを観ている。帰る間際のこそっと渡してくれるお小遣いだけを、楽しみに。
その時、おばあちゃんが笑いながら言う。
「あなたも飲み込んじゃえば良かったのよ。」
「それは、私には出来る筈ないのよ。お母さんだけの特権なのよ。だから、私のやり方でああするしかなかったの。」
母親はからっと笑いながら応える。
僕だけは、気づいている。あの事だと。
落ちていく夕陽が射し込む。眩しくて振り返ると、オレンジに染まる二人が美しく見えた。愛は、こんな色なのかもしれない。