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あんパン

 寂れた商店街を抜けた先に、美味しいパン屋さんがある。僕が物心ついた時にはあったから、三十年はとうに越えている。店主はいつの頃か、その息子が受け継いだ。あんパンがとっても美味しい。粒餡がたっぷり入って表面の焼きが他のそれより強く、囓るとさくっといい音がする。その食感と控えめな甘さが癖になる。たった八十円で手に入るささやかな幸せ。この辺りで知らない者はいない。
 大通りから右折すると、その商店街は現れる。といっても、稼働している店はほとんどない。なぜ取り壊さないのかも気にならない程、緩やかに寂れていった気がする。静かに歳を取るように。
 急にしんと静まるせいか、耳の奥がきいんと音をたてる。半袖が肌寒い。商店会に沿うように屋根はあるが、所々破損しているためそこから陽が差し、さほど暗くはない。
 ふと気配がし横に目を遣ると、老婆が並んで歩いていた。白いブラウスに薄い黄色のカーディガンを羽織り膝下まである深い草色のスカート。上品な佇まいと歳の割にぴんと歩く姿に目を奪われる。自分の猫背がみっともない。
 「こんにちは」
人懐っこい笑顔に、自然と皺が後を追ってくる。笑い皺は目元だけのものじゃないんだなと思う。こんにちは、と返し、自分はいつも挨拶で笑っていなかったと気付く。
 「どこに行かれるの」
 「この先のパン屋さんまで」
 「あら、同じ。」
一緒に行きましょう、と言われた気がして歩幅を狭くする。並んだ僕に、鼻をくいっと持ち上げた笑いかたにどきっとする。優しいお香の匂いがする。
 「武夫さんが、あそこのあんパン好きでね。」
武夫というのは旦那さんだろうか。
 「初めて彼と出掛けた日、あそこのあんパンを買っていったの。あまり話さない人だったけど、その日、彼は私と結婚したいと思ったみたい」
そう言うと彼女はくつくつと笑った。可笑しそうに笑う顔が幼く見えた。それほど、美味しかったんでしょうね、と相槌をうつと、
 「それもあるけどね、初めてのデートにあんパンを買ってくる気取らないところに惚れたみたいなの」と、くくくと嬉しそうに笑った。凄く好きなんだな、と思う。
 「だからね、それから武夫さんに会う日は、いつもあんパンを買っていったの。」
 さすがに飽きるんじゃないですか、と返す。
 「飽きるとかそんなのどうでも良かったのよ。私にとっての表明だった。あんパンを買い続けることで、初めて会ったときの私から変わらないって。」
 真っ直ぐな女性だ、と想う。この様な女性は今まできっと居たに違いない。僕に気付ける器量がなかったんだろう。
 その後、彼女は思い返すように武夫さんの話をしてくれた。時間を咀嚼するように。淀みなく話す柔らかい声が心地良かった。お香の薫りが濃くなっていくように感じた。
 武夫さんは、いつもあんパンを喜んで食べてくれたこと。知らない男性がむすっとしたまま頬張るのが頭を過る。
 結婚してからも、出掛ける日、特別な日は必ずあんパンを買ったこと。彼女が小走りで買いに行く間、武夫さんは家の前で煙草を吸いながら待っている。想像なのか、目の前に映る光景なのかわからなくなる。でも、そんなはずはない。大工をしていたが、彼女の父親が体調を崩したのを機にすっかり辞めて黙って魚屋を継いでくれたこと。「棟梁も言うてたがな。もうすぐ一人立ちさせたるって。今辞めるんは違うやろ」声をかける僕に下を向き深々とお辞儀し去っていく。喧嘩をした日も彼女の見えないところであんパンを食べていたこと。夜中足音も立てず居間に侵入する可愛らしい姿である。朝になると、ナイロンの袋がごみ箱の底にくるまっていたこと。始めのうちは、二つだったあんパンも、子供が出来て三つになり四つになった。成長期の息子に勝手に食べられ、少し機嫌を損なう武夫さん。やがて息子たちは家を離れあんパンは二つに戻り、歳を取り一つを二人で分けて食べるようになったこと。大きい方が武夫さんで、小さい方が彼女の分。寒い寒い冬の朝、武夫さんが死んだこと。死ぬ間際、あんパンを楽しみに待っていると言ったこと。次に会うまであんパンを買わないと決めたこと。
 ふと見ると、商店街の中はたくさんの人で溢れている。母に連れられ、はぐれないように手を繋ぐ。しっかり握っていないと、二度と母に会えないような気がする。目が回りそうになる。魚屋で秋刀魚を三匹買う母親。そこのおじさんはあまり笑ってくれない。だけど、母親の目を盗み、水槽の水を指先で跳ね返し僕に浴びせてくる。その時、こっそりにやりとする。そのおじさんが好きだった。

 パン屋に着く。一人になっていた。僕は両親と弟家族の分など、七つ買う。元来た道を歩く。彼女はパンを買えただろうか。くるくると表情を変える彼女は、なんだ、久しぶりのデートだったんだと気付く。
 シャッターの降ろされた店の前。煙草を吸う武夫さんはいない。無事に出掛けたようだ。
 深い深いお香の薫りが僕を包む。
 
 
 

もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。