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どんぐり

電車に乗っていたら、空いているのにつり革を持って立つおじいさんがいる。おじいさんはリュックをを背負っている。網目のポケットが両側にあり、片方には折り畳み傘が入っている。もう片方にはどんぐりが4つ入っていた。

いいものを見たなあと思った。

孫と公園に出掛け「これおじいちゃんにあげる」と言って貰ったどんぐり。失くさないようにそこに入れたのかもしれない。
妻と公園を散歩して、「懐かしいなあ」と拾い上げたのかもしれない。なんとなく手のなかで遊ばせながら気づいたら公園の外に出ていて、ひょいとそこへ入れたのかもしれない。

幾つかの想像をめぐらしてみるが、一つも悪いものは過ぎらない。

その光景が、なんの疑いもないくらい温かさだけを受け取れるものがこの世界にはある。

川田のじじいと指す将棋が決まりだった。腕は互角で、毎週土曜日のお昼から、川田のじじいの家に赴き、茶を飲み、指す。別に将棋が好きなわけではない。時間だけが途方もなくあったのだ。春の暖かい日には、縁側に出て決して大きくない庭を眺めながら指すこともあった。庭にはどんぐりの大きな木があった。若い頃に買った一軒家。住み始めた次の年、植えてもいないどんぐりの木が、にょきにょきと伸びたらしい。秋には沢山の実をつけやがて落とした。妻と幾つか拾いあげ食べてみようかと言ってみた。「もうそんな時代じゃないわ。」と言いながら湯がいてみたけどそれ程美味しくはなかった。二人は笑った。子供が産まれた。物心ついた息子は喜んで拾い集めた。爪楊枝を刺して駒にしてやるとと、いつまでも遊んでいた。とっておきのどんぐりは机に入れていた。その息子が大きくなって孫が出来、こっちに帰省した際、今度は孫が同じくまた拾い集めた。爪楊枝を刺して駒にしてやると、物珍しそうな目で嬉々としていつまでも遊んでいた。残ったどんぐりは袋に入れて大切に持って帰って行った。と川田のじじいは懐かしんでいた。
この歳になると別に約束などしなくとも行けば居た。川田のじじいは少し前に奥さんを亡くし、独りだった。息子達は盆正月に帰ってくる程度。小さな一軒家で、静かに暮らしていた。どの部屋も掃除が行き届いていて無駄なものはほとんどなかった。丁寧に暮らしているな、というのが印象だった。少しのお酒を呑み、齢に合わないドラマも好きだった。訊いて観ることは正直なかったが、今どのドラマが面白いかを聞いているのが好きだった。知っているのもあれば知らない若手俳優の名前なんかも口にしていた。
ニヶ月前、インターフォンを鳴らしても、川田のじじいは出てこなかった。その日の晩、彼の息子という者から電話があった。電話台の横のメモに私の名前と番号が大きく書かれていたらしい。友達だと思い電話をかけてくれた。訊けば入院しているとのこと。あぁそうかと思った。この歳になるとそんな事はたくさん耳にする。またか、と。そこからはあっという間だった。
葬儀の日、息子と名乗る者に声をかけられた。川田のじじいの皺を消したような顔で少し笑った。
「もし良かったら将棋板貰って頂けませんか」
丁重にお断りした。別に将棋が好きなわけじゃない。何より指す相手もいない。今から相手を探すのも面倒だ。時間が途方もなくあるから指していただけだ。
「どんぐりを持って帰ってもよろしいか」
一瞬、きょとんとした目で何を言っているのかわからない風だった。誘うように庭を見て、「ああ、あれでしたら幾らでも」とすぐに笑顔で言ってくれた。丁寧な子だなあと思った。
ズボンのポケットに入れようと思ったが、リュックの網目のポケットをそれを入れた。


もしも、貴方が幸せになれたら。美味しいコーヒー飲ませて貰うよ。ブラックのアイスをね。