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なぜ僕たちはチェンソーマンのデンジに夢中になるのか

大ヒット作チェンソーマンの主人公、デンジが今までの少年漫画とは全く異なる魅力を持っているので、書き上げてみた。(メモのような内容なので、他のnoteと口調が異なる)

1部前半〜夢バトル〜

デンジが新しかったのは、主人公なのに本当に何も持っていない人間で、志すらない。というところだった。

普通の少年漫画の主人公は、最初弱くても「海賊王になる」みたいな大きな目標に向かって突っ走りながら成長していくのが痛快、というのがテンプレである。

デンジは臓器を売らなければいけないほどの借金苦で、友達もおらず、社会とのつながりがまるで無く、知識も社会感覚もまるで無い。

なので、デンジには「パンにジャムを塗る」という目標しかなくて、それを味方からも敵からもめちゃくちゃ下に見られている。

ところが、デビルハンターの世界では何も持っていない奴の方が、失う恐怖も持ち合わせていないがゆえに強いという設定があって、逆に「低レベル」なデンジが最強キャラになるのが痛快。というところに一部の基本的な面白さのエッセンスが詰まっている。

なので、序盤の「夢バトル」が全てのストーリーの源にあるコンセプトと言ってもいい。

現代人共通の悩み

多くの現代人の苦しみは「何者かにならなければいけない」あるいは「もっと大きな幸せがあるに違いない」という焦燥感を煽るように社会全体が設計されてしまっていることから起きている。

そのシステムの根っこは、資本主義競争社会における自己責任論と、繋がりすぎたソーシャルネットワークにある。

資本主義競争社会は、建前上は誰にでも平等にチャンスがあるので、成り上がっていないものは怠惰だという烙印を押されてしまう。大昔は農民は農民のまま一生を終えることが当たり前で、「大名になっていないのは自分の努力不足である」というプレッシャーを感じる必要はなかったのだ。

また、現代のSNSは自分の幸せを見つけることを困難にしている。SNS内では否応なくお互いを比較をしてしまうし、アルゴリズムはそれを煽るようにどんどんアップデートされていっているのだ。例えば全ての起業家は、自分とイーロンマスクが同じ空間にいることを強要される。

だから、私たちは「パンにジャムを塗りたい」という目標で無敵になれるデンジに魅せられてしまう。

※ちなみに、チェンソーマンの世界ではソ連が崩壊しておらず、まだ携帯電話が普及していない。つまり、資本主義とソーシャルメディアが世界を制する前の世界で物語が繰り広げられている。

1部後半〜私たち化するデンジ〜

後半のデンジは、どんどん「私たち化」してしまう。

活躍を続けるうちに生活水準が上がり、家族や友達や仲間を知り、力も名誉も得て段々と持つ者になっていくが故に、いつの間にか「パンにジャムを塗る」程度の幸せで良かった自分を失っていることに気がつく。

現代の課題感を全て超越した人物だったはずのデンジが、私たちに似たような葛藤を抱え出すのが、1部後半のデンジにまた引き込まれる理由だ。

そして全てまた奪われてリセットを食らうのが1部後半のハイライトだ。このような激しい落差によってチェンソーの悪魔を支配しようとしたのが全てマキマの策略だった。

だがデンジは勝利する。この時点でデンジは、人生を一周したと言える。

2部〜知ってしまったが故の葛藤〜

2部のデンジは、得る苦しみも、失う苦しみもどちらも知っている。得る苦しみとは、今の欲望を満たしても、また新しい欲望が生まれて、永久の満たされることのないサイクルが発生してしまうことだ。失う苦しみは、得たものの数だけ大きくなる。

さらに、ナユタという自分自身で守らなければいけない存在も初めてできている。デンジは今まで自分の幸せにだけ関心を寄せれば良かったが、今はナユタの幸せもデンジの手にかかっているのだ。

なので2部では、デンジは「足るを知る」を自分に言い聞かせ、余計な方向に人生を進めないように、自分の欲望と少し距離を持った態度で日々を過ごしている。

ところが、周囲はそうさせてくれない。チェンソーマンという存在は世界にとってあまりにも重要で、色んな勧誘がやってきてしまう。厄災も強制的に次々降りかかるので、無視するわけにもいかない。

時には、自分ではない人物がチェンソーマンの手柄で周囲から承認されてしまうこともあり、まだ大人になりきっている訳ではないデンジは、指を咥えることになる。また、性欲だけは全く自制が効いていない。

大人になりかけているデンジが、今後どういう方向に振れていくのか、その時チェンソーマンとしての力はどうなるのか、2部も目が離せない。

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