カプセル(仮)

A
#1
 
 冷房で冷え切った肩にパーカーを羽織る。過剰なまでに女らしい形をした時計を見ると午前3時を刺していた。流行り廃りこそあれ、谷間と足が見えることには変わりのないドレス、これを着る時も脱ぐ時も嫌になる。接客を終えて控え室に戻ると、自分の髪の毛から漂うタバコの匂いに吐き気がする。
 
 ーなんでこんなことになってるんだろうー
 
 フロアには常連の何をしてるのかわからない男2人しか残っていない。もうすぐマネージャーの榊が来て、私の仕事は終わる。
 
 「レイさーん、お疲れ様でした。」
 
 マネージャーの榊、顔はそこそこカッコいい。昔流行った中世的な顔をしている。声もいい、接客もいい、それから肝臓もいい。勧められた酒は何でも飲める。
 
 「レイさん、来月のシフト作りたいんだけど、希望休あったら教えてね。グループトークやだったら直接でも構わないからね。」
 
 「ありがとうございます。」
 
 こういう夜の仕事のシフト作りは至難の業らしい。体験入店の若い子はいとも簡単にバックれるし、女の子ならではの体調の波も機嫌の波だってある。それでも微笑みをたたえて希望をヒアリングする榊、本当にすごいと思う。
 
 ここでの源氏名はレイにした。アニメのヒロインの女の子からパクった。本名より気に入ってる。ここで働いてる間は本名を忘れられるのがいい。夜が明けてしまえば、本名がついて回る時間がやってくる。名前だけじゃない。アタシのせいじゃないことまでアタシを追いかけてくる。
 
 ケータイを使って今日来た客に御礼のメールを打つ。酔いが覚めてない奴ほど冷静ぶってスカした返信をよこす。酔いが覚めた奴はそもそも返事なんてよこさない。そりゃそうだ。夜が明けてしまえば、あいつらも色んな事に追いかけ回される時間なんだ。
 
 喉が渇いたのでキッチンルームに行くと、バンドでドラムをやってるとかいう岩川がタバコを吸いながら洗い物をしていた。
 
 「おーレイさん、何か飲みますか?」
 
 「ごめんホットミルクもらっていい?胃が痛くってさ。あとトースト食べたい。ハチミツ塗ってくれると助かる。」
 
 「りょーかいっすー」
 
 岩川は背が高い。長い手足が狭いキッチンに不釣り合いなようでいて妙に都合が良さそうに見える。洗い物の手を止めると、冷蔵庫のパンをトースターにかけ、振り向きざまにマグカップに牛乳を入れてレンジに放り込んだ。
 
 「今日はもうノーゲストですよね。あー俺も飲んじゃおう。」
 
 電子レンジのダイヤルを操作しながら背中越しに勝手に喋っている。おそらく瓶ビールをくすねて飲むのだろう。
 
 “チン”
 
 という音を立ててトースターからパンが焼き上がる。四つに切ってお皿に乗せてシナモンとハチミツとバターを添える。
 
 これがアタシの朝ごはん。
 
 「ありがと。」
 
 岩川は30歳くらいだけれども、実家暮らしで売れないバンドの活動費のためにキャバクラでキッチンをしてる。育ちがいいのか悪いのか知らないけれど、余計なことを喋らないのがいい。
 
 キッチンの片隅にある椅子と小さなテーブル、ここは主に男子スタッフが賄いを食べたりする休憩スペース。キャストと呼ばれる女子達の控え室がキツい時はここに来る。
 
 休憩、休んでいる時ほど考え事や悩み事が押し寄せてくるのはどうして何だろう。さっきまでしてた酔った男の相手の方がマシだとすら思ってしまうのは何でなんだろう。
 
 残り一切れになったトーストでお皿に残ったハチミツとバターをすくいながら食べる。甘い。脳が痺れるくらい甘い。喉にからみついたハチミツを緩くなったミルクで流し込む。
 
 「ごちそうさま。」
 
 返却カウンターにお皿とマグカップを返す。岩川はこっちを向いて少し笑うと瓶のビールを飲みながら洗い物に取り掛かった。閉店の準備をするのだろう。
 
 榊に帰る挨拶をすると、別の雑居ビルにある着替え用の部屋へ向かう。繁華街の雑居ビル、朝の清廉な日差しを持ってしても流しきれないほどドス汚れてると思う。
 
 ノミ屋の見張り、酔っ払い、乞食、水商売の女の子を出待ちする変態、夜の仕事を終え朝のホストに行く女の子、ぜんぶぜんぶ洗い流すような雨が降ってくれればいいのにと思う。
 
 着替えを終えて雑居ビルを出ると送迎のバンが到着していた。スライド式のドアを開けてシートを倒す。
 
 「お疲れ様でした。」
 
 運転手の吉村がこっちを見ずにボソリと喋る。吉村は左手の人差し指と中指が無い。工場の仕事で巻き込まれて失ってしまったらしい。
 
 「お疲れ様。それじゃお願いします。」
 
 吉村は運転が本当に上手だと思う。ほとんど信号で止まらないし、揺れもしない。前にいた若い男の運転手はロッキングチェアみたいに車体を減らすド下手野郎だった。
 
 バンの暗闇の中、運転手の吉村の死んだ目が前方にだけあることを確認してからケータイの画面のロックを外す。
 
 “新着メッセージ6件”
 
 “美月、本当にすまないんだが、マンションは後三ヶ月で退去してもらえないだろうか?サポートはする”
 
 “お前の今後は俺が何とかする”
 
 ”返事ぐらいしたらどうなんだ?”
 
 “不在着信”
 
 “不在着信”
 
 6件のうち5件はマンションを借りてくれた愛人の男だ。名前は音羽ノブユキ、不動産投資の会社を経営している妻子持ち。出会いはありきたり、店に仲間と来て羽振りよく飲んで、店の外でも会おうと言われて、後はお決まりのパターン。
 
 最初は良かったけれど、きっと他にも女がいるのだろう。いつしか重なるのは体だけで心は離れていった。SNSの非公開アカウントでクルーザー遊びや地方の水商売遠征してるのを自慢している。
 
 “ままおやすみなさい”
 
 6件目のメッセージは息子からだ。
 
 いい意味でも悪い意味でもアタシをこの世に縛り付ける存在。きっと今日も留守番の末に眠りにつく前か、うとうとと眠って起きた頃合いでメッセージをよこしている。
 
 アタシはこの子が怖い。この子と一緒に居る時間が怖い。
 
 なんでこんなことになってるんだろう。声にならないため息をつきながらケータイをバッグにしまい、ゆりかごのようなシートに体重を預ける。このままどこか遠くに運んでくれたらしあわせなのだけど、吉村は最短ルートでマンションにアタシを送り届けるだろう。
 
 
 
 
 

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