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言葉の消費。

冷たい。
湖沼を覗きこめば、まるで獰猛な怪物が寝そべるようにして、底に深淵がいた。
水面では水の揺れ伝うさまは静かでやさしい、深く浅く、上下する水の輪、たちまち消える水泡、さもそこに息遣いするなにかが眠るよう。静謐に落ちこむ時間、その世界。水の世界。
音が戻ってくるとそれは、大きな犬の呼吸にも似ていた。
しかし浮かびあがる影を目で追えば、沈みいく底暗さで、もう見えない。
生を食らう死の臭いを感じる、動かぬはずの深淵から。

時間は真っ直ぐに水面から突き刺さったまま。バリバリっと鏡が割れたように響く音鋭く、時が水面直下───。
水にうつる世界は動揺した。硝子破片に散らばる万華鏡の如くきらめいていた。
真っ逆さまの冷淡な時の針では、底深くまで届かずにいるのだろう、それとも深淵が針諸とものみ込んでしまったのかも知れない。
深淵は時を知らない。


あれから、まだここから、底を覗いている。下を。深く奥の底を。澱む緑に揺れる影々それぞれが、水底にひそむ怪物の息づかいや瞬きと見て違いないとわかった。
しかしいつしか、変わらず刺さったままの時間は朽ち果てかけていた。
なお手を浸してみると、水は冷たさを隠して生ぬるい感触。
手にからみつく水滴たちからは饐えた臭い。 
不透明な水の向こうでは、水中花がいかにも香しげに浮きつ沈みつする光景が幽かに見えるだけで、深淵の息遣いが伺えない。
水底からあれがいなくなることなんて起こり得るのだろうか。
花たちは、目を背けたくなる類いの姿態そのものだった。
そして実際、目を背けてみると先ほどまで濡れていた右手が、いやに寂しく感じられるのだった。
曇り硝子ごしの未来。
輝く明日なんて、薄汚れた紫陽花よりも見たくなかった。無かった。
足裏から伝わる侘しい生活の音。雑然。雑念。思考。砂嵐。 
消えたい。渇いた部屋に湿ったにおい、埃と黴、体内侵入。侵。侵される。私が犯される。閉めきった午後の和室、垂れる日差しだけが良心を揺さぶっていた。
夏だったかもしれない。青に眩しい空がいつも『お前は灰色だ』と言い捨てる顔が怖くて、家を閉ざした。うちへ閉ざした。そしてじぶんが閉じていった。
薄目をあけたって光はなくならなくて、いつまでも少し先でちらちらと視界を遮った。それが鬱陶しくて底暗い下へ逃げたのだった。ここから見上げる世界は、水を透して目を凝らす世界は、とても美しかった。とても。悲しいほどに見えなくなるモノはなんだったろう。光に透かされて、何もかもが眩く、眩く────

透明に暗がる体、灰がかった視界。水にうつるせかい。
割れる。反転しながら、見えなくなる。
水中花も姿を消し、浮沈する水の輪に包まれる。あとからあとへと。
身体が溶けだしたように滲みいく、沈む。底へ。水の底へ。 
冷たい。
水底へと沈むからだ。真っ逆さま。
冷たい。
一切の感覚は冷たさに収斂される。

失せゆく現実感、
この存在は沼に飲まれ深淵に喰われ、散り散りになるのだろうか。

意識下でぞわぞわ這い出る恐怖の感覚
やはり危ぶむと哀れなる陰がちらつきだすようだった
足か手か髪の毛一つでいい、深淵に触れられたなら。確かに底にいると思えたのなら。言葉を失ってしまったっていい、膝を抱えながら迎えたあの夜、真っ暗な部屋の角っこ。きっと三日月のやってくる頃には、この頭にたくさんの言葉がしまわれていたことも忘れてしまうだろう。
失ったことさえ認識できずに 
人々と同じ現実空間を認識していられるなどどうして思えようか。

私は私の脳の回路で迷子になって、絡まった感情とか錆びた感覚に埋もれて石灰化していく、いつかの心の閉鎖よりももっと奥の奥までひっこんでしまう。
ガシャン、ガシャン、軋む音響かせて歩くたびに螺がひとつ、またひとつと外れ落ちていく旧式のロボットを見たことがあった。
ギシギシ軋ませ時間に同化されていくだけ
いつか風化した金属だったものが土へ還るまで、ロボットだった残骸として地球に在るだけ。

私は在る、自覚している今のすべてが私として実在の証明なのに
ぜんぶぜんぶ、自分の意識下に沈んでしまったら、自分はどうなっちゃうの?
精神世界で夢見る狂人でもいられなくなっちゃったら
私、どこにも逃げられない
足がすこしずつ透明性に冒されてい、視覚によって捉えられた情報に過ぎない。
それは確かだった。
なのに。その情報を、どう繋げば私を構成するのか解らない。理解できない事の本質が掴めない。曖昧に胡乱に薄明のもと、この手から私が去っていく。ほんとに、透ける現象が生じているの?壊れた私の私たる見えないナニカは、確かな実在纏った身体をも巣食ってしまうの。
どこにいっちゃうの。ここがどこで、ママのいるあそこは遠くて、消失した私の一部の行方も知れない。
宇宙の欠片に、散りばめられたい
私の存在が世界に透過していくほど、私を成す意識の集合体が幽体


よろしくお願い申し上げます。