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vol.6 シンポジウムでナイーヴな(もと)アクティヴィストとして語ってしまうという大失敗

カメラマン田村正毅の回顧展

 さて。とても楽しく勉強にもなったコンファレンスがこのgraduate conferenceだとしたら、その前月の2月末に参加したシンポジウムでは、違う形ーはっきり書けば、わたしにとっては非常につらい形でー勉強をさせてもらった。

 シンポジウムのタイトルは、「アクティヴィスト・カメラ:日本映画における階級、セクシュアリティ、エスニシティ」。シカゴ大学の日本映画ワークショップ(東アジア研究センターが主体)が主催したシネマトグラファー、田村正毅の回顧展の一環として開催されたもの。イベント全体としては、1月から3月にかけて毎週末、小川プロ時代の作品から最近の若手監督と組んでの作品(河瀬(=仙頭)直美監督の『萌の朱雀』、諏訪敦彦監督の「2/デュオ』など)まで12本の上映からなる、監督ではなくてシネマトグラファーの仕事で日本映画を回顧するという意欲的な試み。シンポジウムが開催された2月の最終週末には田村さん本人をはじめ、シンポジウムの他の出席者であるバーバラ・ハマー、中田統一、ジョナサン・マーク・ホール、キース・ヴィンセントが集まって、金曜午後のレセプション、夜のトム・ガニング(シカゴ大学美術史、映画、メディア・スタディーズ教授)×田村の質疑応答によってシネマトグラファーの仕事を具体例(映像クリップ)を見ながら明らかにしていくコーナーと、「火まつり』(柳町光男監督)の上映会(ビデオだったのが残念)。そして、土曜午前中の『ナイトレイト・キス』(ハマー)と『大阪ストーリー』(中田)上映会、午後のシンポジウムに参加した。

 で、どうしてわたしにとっては「つらい形でのお勉強」だったかと言えば、単純な話で、シンポジウムで完全な計算違い(戦略不足?)ですっかり浮いて、バ力をさらしてしまったから。そもそも、このテーマのシンポジウムで、しかし主役は明らかに田村さんで、なのにその他の参加者は全員ゲイおよびレズビアンだ、でもって主催者および聴衆は大学関係者だ、ということを不思議には思っていた。のだけれど、発表内容を準備していく必要もなかったこともあって、「まあ、いっか」とその意味合いを深く考えることもしなかったのだから、自業自得。直前に主催者側からEメールで「なぜアートセンターでの仕事や美術評論の仕事、さらにレズビアン・アクティヴィストとしての活動をしていたのをやめて、大学院に留学することにしたのか」「日本のレズビアン・コミュニティのこと」などを中心に話をききたい、というリクエストをもらい、「それなら簡単」と真に受けすぎてしまった(つまり、その他の明らかな状況を考慮しなかった)のが浅はかというやつで、非常に無知かつ楽観的な(もと)アクティヴィストで、現在は大学院の一年坊主のおねえちゃんが、映画の話もせずに自分の話ばっかりした、という結果になってしまった。

 この、「ナイーヴなアクティヴィスト」の役割というのも、場合によっては非常に有効なものだというのはわかっているし、意識的に選択したのならいいのだけど、今回の場合は残念ながらそうではなくて、単なる無戦略による失敗だったので、救いようがない。聴衆はおろか、モデレーターのノーマ・フィールドさん(シカゴ大東アジア研究の教授)にすら、わたしにとってのアクティヴィズムが伝わっていないのがありありとわかって、とても残念だった。観客のひとりからは、三里塚闘争などの時代の運動とまったく無関係なところからレズビアン・アクティヴィズムが出てきたみたいな認識をしているのはいかがなものか(つまり、無知もいいかげんにしろ、田村さんに失礼だろ、と言いたかったのだと思う)というコメントは出るし。どうせ浮くんだったら、小川プロの三里塚作品での、集会でうなだれながら発言はしない女性たちのロング・ショットについて田村さんにきいてみるとか、あるいはもっと過激に、「ジェンダー役割のキツい村落社会を理想化して伝えるような仕事は敵だ」とか言ってみてもよかったかもしれない。もっと素直にいっても、せめてバーバラ・ハマーの作品の日本での影響力については話すべきだった...など、「べきであった」が山盛り、頭のなかを渦巻く状態で、他の参加者にも、聴衆にも申し訳ないなあ、という気持ちでいっぱいになってすごすごと帰ってきたわけなのだった。これほどの挫折感は記憶にないほど久しぶりで、「聴衆が少なかったのが不幸中の幸い」とか、消極的なことばっかり考えていたのだけれど、ここはやっぱり「成長信仰」者としては「いい勉強になってよかった」と思わなくてはいけないなあ、とやっと思えるようになったところ。

 ところで、『三里塚辺田部落』のなかでのヘビのシークエンスについて「アクティヴィスト映画で、なぜ、ヘビをこんなに長く撮ったのか」という質問に「ヘビは好きなんです」と答えるなど、終始、ひょうひょうとした調子をくずさずに発言していた田村さんが、「小川プロでの共同生活による制作スタイルに戻りたいと思うか」という質問に対して、「外からはわからないやっかいな問題が、当然ながら毎日あった。今さら戻りたいとは全く思わない」とその時だけは熱っぽく語っていたのがすごく印象に残っている。

連載当時の『イメージフォーラム』新創刊1号の誌面

*冒頭写真:メキシコのバハ・カリフォルニアを歩くパートナー(1999)(撮影:溝口彰子)

連載第2回「日本の『草の根文科系レズビアン・アクティヴィスト』がUSAでクィア理論を学ぶと……」を三分割し、各回タイトルをつけた後編です。初出『イメージフォーラム』新創刊1号(1999年夏)(特集タイトル「表象の世紀末/世紀末の表象」)p.71-75を分割。

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研究20周年の節目に、アメリカの大学院に留学し、理論トレーニングをうけはじめたころのエッセイをこちらで公開することにしました。『BL進化論』のメイキングでもあり、視覚文化研究者としての私の出発点でもある熱き日々の記録を、ひろくお読みいただければ嬉しいです。コメントもお気軽に!