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vol.12 明らかに異性愛女性向けファンタジーである今の「やおい」に、どうすればレズビアンとして取り組めるのだろう?

「やおい」もいまや伝統芸能か

 具体的に言えば、博士論文にまで引っ張っていけるかどうか、わからないけれど、とりあえず、手をつけた「やおい」のプロジェクトを展開させたい、という思いがまず、あった。

 ここで少し、以前にやおいプロジェクトについて書いた時からの認識の変化を説明させてもらえば、この夏休みに「フィールドワーク」をしてみた結果、いわゆる、現在、売れている主流のやおいに自分が正面から取り組むっていうのは、ナシだな、ということがわかったので、今後も「やおいプロジェクト」と呼び続けていいのかどうか、という気もし始めているのだけど...。なにせ、有名なフジミ・シリーズ読破から始まって、手当たり次第に漫画や小説を読んだり、現役編集者さんや作家さんとお話したり、コミケのJUNE地区での売り子をしたりと、やおい度の高い夏を過ごした結果、今の「やおい」の99%+は、ノンケ女性による、ノンケ女性のための、ヘテロセクシャル・ファンタジーなんだなあ、ということを痛感したもので。

 「女性のヘテロセクシャル・ファンタジー」を「男2人の身体のうえで展開させる」にあたっての約束事が、作風の異なる多数の作家の、複数の異なる出版社からの出版物において、ほぼ完璧に遵守されている様は、こりゃもー、伝統芸能の域に近いんでは、と思えるほど(注2)。受け(女役)と攻め(男役)が固定してることとか、セックスといったら必ず挿入ありのアナル・セックスであることとか、「オレは本当はノーマル(異性愛者)なんだ。男が好きなわけじゃない。オマエだけが好きなんだ。一生、オマエだけだ」(注3)であることとか...ヘテロセクシャル女性のファンタジーなんだから、と考えれば、「男女(攻・受)役割ははっきりしている必要がある」「セックスはヴァギナ(アヌス)へペニスを挿入するものだ」「男キャラ2人に演じさせているけれど、これはヘテロセクシャルな恋愛なのだから、ホモはお呼びじゃない。むしろ、同性同士という設定は、愛の強度を証明するためのハードルとして利用されているだけ」ということなんだな、と、理解できる。で、それらの法則にレズビアンの私が違和感を感じるっていうのは当然というか仕方ないというか...。まあ、正直いって、「たくましい男」と「女性的で美しくて、エプロンして家事する男」だとかに分かれている「新婚さんもの」なんかだと、はなっから拒絶反応だからいいんだけど、友人関係から恋愛関係になっていってどーのこーの、っていうストーリーがイイ感じに進んでいって、けっこう、感情移入して読んでたのに、さてベッドシーン、となると、何の言い訳もなーんにもなく、いきなり、片方が下になって大股広げて(失礼)挿入されている...で、セリフが決まって、(攻め)「キツくない?」(受け)「んっ...大丈夫...」だったりすると、正直いって、ガクーッと気が抜けてしまいますが(笑)。でもそれも、もともとの対象がレズビアン読者じゃないわけなんだから(ノンケ読者は、そのソーニューのシーンにこそ感情移入するんだろうし)、「がっかり&ぐったりしました」とは言えても、文句つけるのは「筋違い」だしね。それこそ、「そんなことで文句いってる暇があったら、レズビアン向けの小説でも読んだら?もし、それがないっていうんだったら、自分で書けば?」って、言われちゃうだけだし、ね。

 だから、いわゆる「やおい現象」というか「やおいジャンル」総体の問題については、「一見、ゲイにみえるような、男同士という設定を使っているけど、ノンケ女性のファロセントリックなヘテロセクシャル・ファンタジーであり、同性愛を否定する価値観の上にこそ成り立っている」ということを、今、とりかかっている宿題その1の論文で、ホモフォビアやクローゼットをめぐるクィア理論をからめたりして論じてみようとはしているけれど、たぶん、それ以上はいかないような気がする。

 むしろ私の興味は、今のやおいの源流だったの年代少女漫画も、ノンケ少女たちのためのファンタジーだったわけなのに、なぜ、それにもかかわらずレズビアン・リーディングが可能だったのか?ということや、思春期に読んだフィクションに価値観が形成され、その価値観を現実に生きるようになるのだとしたら、フィクションと現実の関係性は何か?とか、といった方面に向かっていって...といったわけで、いきなり授業の話に戻れば、「エイズと表象」「日常生活の修辞学」で出会う、「表象」「メタファー」「読むという行為の創造性」「資本主義社会において、毒抜きされて消費財として提供される『禁忌』」だとか、といった議論が「やおいプロジェクト」に関連している、わけです。

「レズものやおいプロジェクト」に軌道修正

 あ、今日の主流のやおいフィクションについても、ひとつ、レズビアンの立場からすごく面白いと思うことがあって、それは、バラバラと、ではあるけれど、主人公たちのよき理解者であり友人である女性キャラクターが「レズ」だというケースが登場してきていること。読者であるノンケ女性たちは、男性キャラに感情移入しつつ、その友人のレズビアン・キャラにも感情移入するんだろうか?それとも、「普通の女キャラ」よりも「自分に遠い存在」なのかな?それとも、主人公の男の子たちと対等に、やおいの宇宙に参加するには、女子はレズビアンにならなくちゃいけない、ってことなのかな?…私の勝手な読み方だと、もともと男性キャラたちからして、受け(女)にイヤなことをしてくる奴がいなくて、(映画『ピアノ・レッスン」の男性キャラが、本当の男じゃなくて女のファンタジーに都合のいいだけの存在だ、と淀川さんが指摘していたような意味で…)そーいう意味では、受けも攻めも、みーんな、女っちゃ女だよなあ、と思って読んでいるところに、「『本物の女』という記号を背負ったキャラが出てきたと思ったら、レズビアン」ってことで、「あー、やっぱり、これは女しかいない世界、モノセクシャルな世界だったのね!!」とか、思ってしまうんですが。

 男同士にノンケ女性のファンタジーを演じさせるという、この上なくレズビアン・セクシュアリティから遠いはずのやおいの宇宙は、同時に、「ホモなんか嫌い」なノンケ男性の目に触れない宇宙でもあるからこそ、男性向けボルノグラフィー的「レズ」の表象から解放された「レズビアン像」が出現した、つてことなのかも...とか思うと、興味はつきません。ってことは、やおい宇宙ってのは、レズビアン・セパラティスト的世界だ、っていう、栗原知代さんが『恥美小説・ゲイ文学ブックガイド』(93年、白夜書房)で書いていたことにもつながるし...。

 いやー、元気でカッコいいレズビアン・キャラ、もっと増えれば面白いのになあー。なんてここに書いてるヒマがあったら、出版社に若者読者のフリしたアンケートとか、ファンレターとかをバンバン送るべきなのかもしれませんね。「泉野と忍先生のカップルがもっと見たいでーす!」とか「祐也先生、あのカッコいいレズビアンのお姉さんをレギュラーで登場させてください!」とか(半マジ)(注4)。でも、そうやって、文字通りやおい業界に参加していくのもいいけれど(読者のリクエストが非常に早く作品/商品に反映される業界。または、作者、読者、編集者をふくめた共同体感が演出された業界...)、それって、ちょっと違う研究になっちゃいますよねい。

 要するに、私の「やおいプロジェクト」は、レズビアン・リーディングなり、表象としてのレズビアンなり、「レズものやおいプロジェクト」に軌道修正した、っていうか、最初の動機に戻った、ってことみたいです(笑)。(注5)

 さてと、「黒澤明」の授業を通して、アメリカで、フェミニストの女性教授についているからこそ私にも学べるおマッチョなる日本映画、という、面白い経験をしているのですが...そのへんのこと、さらに「エイズと表象」の授業での闘争の現場ぶりなどは、また別の機会に、ということで。

連載当時の『イメージフォーラム』新創刊3号の誌面

(注2)コア読者8万人をかかえるやおい商業出版のなかには、神崎春子の小説、高井戸あけみの漫画など、ごく一部ながらキャラクターが「自覚的ゲイ」な例外があり、私的にはポイント高いのですが、それでもやっぱりセックス・シーンは挿入中心主義なので、そこで、ノンケ・ポルノ鑑賞体勢にスイッチすることに失敗すると、シラケてしまいがち。(実際のゲイは、そんなに全員がアナル・セックスをしているわけじゃないよ、ということも事実としては言えますが、それは、私の反応には関係はないのです。やおいと、レズビアン・リーディングの話、なので)

(注3)フジミ・シリーズ(秋月こお「富士見2丁目交響楽団シリーズ』角川ルビー文庫)の圭はもともとゲイだという設定ではないか、と思われる方がいらっしゃると思いますが、「一生、悠季だけしか欲しくない」「本気の恋は悠季が最初で最後」と言った時点で、「悠季専」なり「悠季セクシュアル」とでも呼ぶしかない特殊事態になっていて、「ゲイ・セクシュアリティ」とは別のモノになってしまっている、というのが私の解釈です。

(注4)「泉野と忍』極楽院櫻子「ぼくの好きな先生」のキャラ名「祐也」は「いけるとこまでいこう」著者名。ともに桜桃書房のコミックス(雑誌『ガスト』で連載中)。ちなみ に、この原稿のなかでの「やおい業界」は、商業誌の世界のみを指しています。

(注5)2018年時点での補足です。本エッセイ執筆は1999年秋。当時の商業BL作品は、まさにホモフォビアやミソジニーを克服するヒントを示す「進化形BL」が2000年代に登場、増加する前でした。ここでは、当時の定型BLに対して、レズビアンである自分がどう研究者として向き合えるのか、いや異性愛のBL愛好家女性たちとともに参加すればいいのかも、……と、やや混沌とした状態をつづっています。とはいえ、「共同体感」とすでに述べていたりと、2015年にようやく上梓した『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(太田出版)の5章で述べた「ヴァーチャル・レズビアン」概念の種がすでにあり、「BL進化論」構築がすでに始まっていたこともわかり、感慨深いです。

連載第4回「日本の『草の根文科系レズビアン・アクティヴィスト』がUSAでクィア理論を学ぶと……」を三分割し、各回タイトルをつけた後編です。初出『イメージフォーラム』新創刊3号(2000年冬)(特集タイトル「むずかしい愛——エロスの現在形」)p.80-84を分割。

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研究20周年の節目に、アメリカの大学院に留学し、理論トレーニングをうけはじめたころのエッセイをこちらで公開することにしました。『BL進化論』のメイキングでもあり、視覚文化研究者としての私の出発点でもある熱き日々の記録を、ひろくお読みいただければ嬉しいです。コメントもお気軽に!