大好きだったソフトテニス

陸上部に入る気満々で入学した中学校。
ちょうどその年に陸上部が廃部になり、たまたま仮入部に行ったソフトテニス部で、その先生と出会った。
冗談で笑わせてくれる時と、練習でピリッとする瞬間のメリハリがとてもハッキリしていて、その愛のある厳しさに惹かれて、その日に入部を決めた。
一年生だった私は熱の入った指導を受けている先輩たちが羨ましく、二年生になるのがとても楽しみだった。

一年生が終わる時、先生が別の学校に異動することになった。
もっと教わりたかった。レギュラーとしてちゃんと期待をしてもらって、ちゃんと厳しく指導を受けて、先生のもとで闘いたかった。やり切れない気持ちで、それはもう、人が死んだかのように毎日泣いた。
新しく来たテニス未経験の管理顧問の先生は他の部と掛け持ちだったこともあって部活に顔を出すことは少なく、どんどん部内の統制が取れなくなっていった。特に、人間関係の難しい中学生女子、なおかつペア競技であるソフトテニス。それはもはや競技ではなくただの友達同士の馴れ合いに成り下がって行った。
強くなりたくて練習がしたいのに、指導者もいなければ、一生懸命やれば反感を買う。
私は部内でどんどん孤立していった。
毎日部活に行きたくなかった。
でも、強くなりたかった。一年間だけでも受けさせてもらえた先生の指導を、無駄にしたくなかったから。
先生が顧問だった当時、私の中学は都大会に連続出場していた。私たちの代でそれを途絶えさせたくない。ちゃんと都大会に行って、先生に感謝を伝えたい。その一心で、居心地の悪い部内での練習と、休日は自主練にも励んだ。

そんなある日の練習中、ボールを打とうとラケットを振った手が突然ガタガタと震え、握力がなくなりラケットを落としてしまった。気を取り直して次の球を打とうとしたが、また震えてラケットを落とした。それ以来私はまともにボールを打てなくなってしまった。中2の秋頃だった。

今の言葉で言えば、あれはイップスというものだったらしい。
当時はそんな言葉もなく、誰に相談すればよいのかもわからなかった。
打ち返せるはずのボールが打てない。
相手が打ったボールに追いつき、相手のコートも見えていて、あのあたりにこんな高さのロブを打とう、とまでイメージできているのに、ラケットにボールが当たる直前に右手だけがガタガタと震え、ボールの勢いを吸収するようにボールとラケットが一緒に落下する。
意味がわからなくて、イライラして、悲しくて、悔しくて、怖くて、毎晩泣いた。

本来片手で打つソフトテニスだが、左手を添えて、ほぼ左手の力を使ってなんとか打ち返すようになった。また、バックハンドでは症状が出にくかったため、フォアサイドに来た球もできるだけバックに回り込み、左手を添えて震えを鎮めながら打ち返した。
そうして、親友の一人を除いて他の誰にも話すことなく練習を継続し、団体戦のメンバー入りもした。

暗闇の中でずっとずっと張り詰めていた心を、一番に聞いてもらいたかったのは先生だった。でも、今は教え子でもない他校の生徒の悩みなんか聞かされたところで迷惑をかけるだけ…と、試合などで先生を見かけるたびに、飲み込んだ。

左手を添えても強いショットは打てないため、とにかく返すだけ。その頃から走ることには自信があったのでとにかくボールに追いついて、相手がミスするまでふにゃふにゃの球でも良いから執念で粘り強く返した。
そんなぐちゃぐちゃな戦い方ながら、中3の夏、私たちは予選を勝ち抜き、都大会出場記録を更新することができた。

都大会が終わり引退となった日。
会場で会えた先生に、最後の挨拶をしに行った。

苦しかった2年間が、やっと終わった。
先生に会えた最後の日。ここまで来れたことへの感謝を伝えて、お別れした。

この日を境に、私は二度とラケットを握らなかった。
チームプレーなんて、ペア競技なんて、面倒臭いものに巻き込まれるのはこりごり。自分の責任は自分で取れる個人競技が良い。そう、私はもともと陸上がやりたかったんだし。
その気持ちは嘘ではなかったけど、強引に気持ちを切り替えて陸上競技の道へと進んだ。

今となっては陸上は私にとってなくてはならない存在で、陸上が繋いでくれたたくさんの縁に囲まれて幸せに生きている。
これが全て運命なら、神様はなんて上手な導き方をするんだろう。これくらい強引に私からテニスを引き剥がさなければ、しぶとい私はきっと陸上に出会えていなかったはずだから。

全ての縁があって、別れがあって、
全ての痛み苦しみ喜びがあって、今がある。
「ここに繋がっていたなら」と思える"今"が、21年前の私の涙を拭ってくれるから、もう大丈夫。

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