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映画『へレディタリー』 ※完全ネタバレなので見た人だけ読んでください

映画『へレディタリー』を見た。私はホラー映画のファンではないが、いままでに恐ろしい映画を見たことはある。例えば家族の絆の断絶という意味では『レボリューショナリー・ロード』とか、『キングス&クイーン』とか、ひたすら胸糞の悪いラース・フォン・トリアーとか。それらは確かに恐ろしかった。でもあくまでスクリーンの中で起こっていることであって、ただ胸糞が悪いというだけで、鑑賞後も”恐怖”の感覚にとらわれることはなかった。

でも、今作が初監督作品だというアメリカの監督、アリ・アスターによる『へレディタリー』は違った。これは、これまでの人生の中で最も恐ろしい体験をもたらしてくれた映画だ。2時間にわたり、一度も緊張が途切れることがなかった。恐ろしいだけでなく、涙が止まらないシーンもあった。スクリーンの向こうのことを、ビール片手にヘラヘラと眺めるのがわたしの映画の鑑賞スタイルだが、『へレディタリー』はわたしの内面にぐいぐいと無遠慮に食い込んできて、すさまじい傷跡を残していった。

映画が終わり、客電が付いた時、わたしは震えが止まらなかった。階段を降りる足が震え、感想をツイートする手が震えた。「あれは映画の中のことだ」と自分を納得させようとしたが、わたしはその瞬間、人間というものが全く信用できなくなっていることに気がついた。帰りの地下鉄のホームにいる人すらも恐ろしくなった。恐ろしいのは人間だけではなくて、人間がいない暗闇も怖かった。怖いのだ。怖い。子供の頃に「オバケが怖い」と思った、あの感情が蘇ってきた。まるで自分が侵食されてしまうような体験だった。一体どう恐ろしかったのか、書いていこうと思う。骨の髄までネタバレなので、見てない人はここから読まないでください。



ここからネタバレ

ホラー映画なので、首がちょん切れたり、人が燃えたり、残酷な描写がすごい。のだけど、それが”恐怖”を引き起こすのではない。ざっくり言うと、1.家族全員が平等に愛されていること 2.見知らぬ人からの善意を信じないこと 3.カルト教団を信じること、この3つのタブーが平気でバリバリ破られていくさまが怖かったのだ。

1つめのタブー:家族は誰でも平等に愛されていると信じないこと 

この映画では、一見幸せそうな家族がどんどんありえないくらいの悲惨な方法で破壊されつくしていく。大自然の中の大きな一軒家に住み、お母さんのアニーは画廊で個展をするようなミニチュアアーティスト、父のスティーブは裕福なセラピスト。16歳の息子のピーターと、13歳の妹のチャーリーの二人兄妹。かわいい犬がいて、外から見れば本当に幸せそうな家族にしか見えない。映画は”普通の幸せ”を外因的/内因的な理由で、まるでショベルカーのようにブチ壊していく。

この点が評価が別れたところで、「毒親」とか、そもそも家族を信頼していない人にはこの映画はあまり刺さらなかったという意見をネットでは見かけた。個人的に、わたしは両親が優しくて、無条件な愛を注いでくれて、弟妹ふくめてみんな仲が良く、家族には絶対的な信頼を置いている。家族に利用されたり裏切られることを想像するだけで血が氷る。だからあるべきはずの「家族の無条件な信頼関係」がどんどんブチ壊されていくのを見るのが怖すぎた。

全身全霊をかけて愛してくれるはずの母が、自分を殺そうとする。家族を信じられなかったら、誰を信じればいい?そしてこういう描写は、「家庭」を何よりも大事にするアメリカ人ならなおさら辛いのではないかと思う。

崩壊のきっかけは、アニーの母、エレンが死んだことだった。エレンは生前、あまり良い母親ではなかった。というか最悪の「毒親」だった。友人もほとんどおらず、意固地で、秘密が多かった。エレンの夫は精神的な病で「餓死」し、エレンの息子は「お母さんが人々を僕の中に入れようとした」と言って16歳のときに首をつって死んだ。アニーにも虐待をしていたのだろう。

そんなエレンも、死ぬ3年前から認知症になり、アニーが自宅で面倒を見ていた。アニーは葬式で「悲しまなくちゃダメなの?」とスティーブに聞く。アニーは恐ろしい母・エレンを恐れてピーターを近づけなかったが(母はわたしがお乳をあげるわといって乳房を出したりするので)、チャーリーはエレンのお気に入りだった。エレンが死ぬと、チャーリーは「これからは誰がわたしの面倒を見るの?」と泣いた。ここでアニーのネグレクトの可能性が示される。一見完璧な家庭を築いていたが、彼女は実は、良い母親ではなかったのかもしれない。

そんな母の葬式に、アニーが知らない”たくさんの人たち”が訪れた。アニーは不審に思うが、その理由は後からわかる。エレンは「ペイモン」という悪魔を召喚するというカルト教団に入っていた。「ペイモン」は最初はエレンに取り憑き、続いてチャーリーに取り憑いた。

チャーリーは一見普通の女の子だが、不思議な人形を作る趣味があり、鳩の死体の首をハサミで切り取った不気味な人形を作っていた。ちなみにチャーリーは「生まれた時からすでに悪魔に取り憑かれていた」らしい。チャーリーの弱点はナッツアレルギーだ。悪魔もアレルギーには勝てないのだ。ナッツアレルギーはアレルギーの中でもひどいもので、少しでも食べるとショック状態になり、喉が腫れて息ができなくなる。それを救うにはエピ・ペンで注射をしなくてはならないことが最初に明かされる。

ピーターは普通の高校生の男の子だ。クラスメイトに好きな女の子がいて、その子が参加するというパーティに行くために「学校でBBQがあるから車を借りていい?」と母に聞く。母はチャーリーに「お兄ちゃんと一緒にBBQに行きなさい」という。チャーリーは「行きたくない」と言うが、アニーは無理やり彼女をBBQ(本当はパーティ)に行かせるのだった。ここでも、アニーの母親としての役割に疑問が起こる。

パーティでお目当ての女の子を見たピーターは、妹を振り切って彼女と一緒にマリファナを吸いに行こうとする。そのために「あそこにチョコレートケーキがあるよ、食べなよ!」と適当なことを言う。チャーリーが手を伸ばしたチョコレートケーキにはナッツが入っていて、チャーリーはショック状態になり、ピーターは完全にキマっている状態で車をぶっ飛ばす。

その結果、道で鹿の死体を轢いてしまい、窓を開けて息を吸おうとしていたチャーリーの頭が電信柱にぶつかって”首が吹き飛び”、即死する。ハイになっているピーターの血の気が引く。自分はとんでもないことをしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。そしてピーターがとったのは、そのまま帰宅し、彼女の首を道端に転がしたままで、首のない死体を車の中に置いたままで、親にも話しかけずに、部屋に戻ってベッドに潜り込むことだった。次の日の朝、車を使おうとしたアニーが首のない死体を見つけて、とんでもない悲鳴が起こる。母のときとは違って、アニーは「もう死にたい」と泣きじゃくり、葬儀のときもずっと泣き通すくらいチャーリーの喪失を悲しんだ。

ピーターはもちろんショック状態だった。しかし彼が最初に取った行動と同じく、親に向かって泣いて謝罪することもなかった。アニーはそんなピーターを食卓で責める。スティーブはいつだって「正気」で、「平和」を保とうとする。「事故だったとはわかってるけど」と息子を責め立てるアニー、「嫌がるチャーリーをパーティに行かせたのはママだ」と反抗するピーター、「もう二人ともやめなさい」と、問題をやりすごそうとするスティーブ。この食卓のシーンは本当に地獄だった。

そんな失意のどん底のアニーは、「誰かを失った悲しみをシェアする会」という互助会に参加する。それがきっかけで、ジョーンという中年女性から声をかけられる。母に続いて娘も失ったアニー。ジョーンはそんなアニーに、「わたしの息子が4ヶ月前に死んだの。孫と一緒に溺死したのよ」と言う。ジョーンも大きな悲しみを背負っているんだと思ったアニーは、ジョーンに心を開いていく。そしてある日、ジョーンは「霊媒師に会って、死者を蘇らせる方法を教わったの」と言う。アニーは最初は信じなかったが、ジョーンが実際に孫をこっくりさんのように呼び寄せるのを見て、チャーリーの霊を呼ぼうとするのだ。しかしそれには「家族全員で呼ばなければならない」という条件があり、アニーはピーターとスティーブを無理矢理呼んで、チャーリーの霊を呼ぶ儀式をする。それがきっかけで、チャーリーが使っていたスケッチブックに、ピーターの顔の目だけを塗りつぶした不気味な絵が描かれるなど、恐ろしい兆候が現れる...。

ここで恐ろしいのは、アニーの反応(顔芸)だけではない。アニーは「狂っている」と周囲に思われている。私はアニーは狂ってはいないと思う。あまりにもショッキングなことがあって、動揺しているのだ。「死んだ娘の霊を降霊できる」「屋根裏部屋に死体がある」「この日記を焼いてほしい」というアニーの願いは、いずれも「アニーがはっきりとその目で見たもの」が根拠になっている。だが、周りからは狂人としてしか見られない。だからアニーは懇願する。「Please....Please....」と。体中のちからを振り絞り、「あなたがわたしを狂人だと思っているのはわかっている、だけどお願い、これだけは信じて」と信頼している夫に語りかける。その様子が本当に見ていて辛かった。自分がはっきりと見たもの、いまこれをしないと悲劇が起こってしまうこと、だから人に助けを求めること。でも、自分は狂人だから取り合ってもらえない。それでも、どうしてもお願いしなければならないことがある。アニーの「Please」は、今までの人生の中で聴いたなかで一番、悲痛なものだった。

物語の後半、アニーは、エレンの遺品から、エレンがカルト集団で悪魔を崇拝していること、「ペイモン」を蘇らせようとしていることを知る。「ペイモンは男子の身体を欲している」と本に書かれていたのを見る。エレンは、最初の男子(アニーの兄)が自殺してしまったから男児が欲しかったのだ。だから溺愛したチャーリーに、「男子になれ」と言った。でもそれはできなかったから、チャーリーの身体を使ってピーターを王にしたてあげた。

チャーリーの事故も仕組まれていたものだ。ペイモンの印が刻まれた電信柱にピーターの車は突っ込んだ。ピーターはただ利用されていただけだった。

ピーターはおそらくアニーと他の男との子供、なのではないかと私は思っている。アニーがおそらくスティーブとの結婚前にうっかり妊娠してしまい、中絶しようとしたが、おそろしい母・エレンが堕胎することを望まなかった。それでもスティーブは自分の息子ではないピーターを、まるで自分の子供のように愛した、のではないかと思う。「俺は息子を守る!」「わたしの子でもあるのよ!」というやり取りはそういうことなんじゃなかったのかと思う。

虐待された子供は自分も虐待してしまうという負の連鎖があるが、そこからアニーはどうにかうまく抜け出し、スティーブという文句なしの伴侶を得て幸せ(そうな)家庭を築いた。でもスティーブは、一連の出来事でヒステリックになっていくアニーを「病気」だと思っていて、超常現象を理解しようとしない。スティーブは忍耐強く、親切で、何も悪いことはしていないのに、悲惨な最期を遂げてしまう。それがまた、アニーを追い詰め、また観客を落ち込ませる。

アニーは夢の中でピーターに告白する。「あらゆる手段で堕胎しようとしたのに、どれも失敗した。でも、失敗してくれてよかったと今は思っているのよ」。それでもアニーは夢遊病で、一度はチャーリーとピーターにシンナーをかけて、自分もろとも焼き死のうとしたことがあるのだ。そんなことをされたのに、どうやって母を信用すればいいのか...。

2つめのタブー:見知らぬ人からの善意を信じないこと

世の中にいる人はみんな善人。そして、見知らぬ人もみんな善人。差し出された善意は受け取るべし。アメリカにはそんな建前があるような気がする。だがこの映画では、「見知らぬ人に差し出された善意」が何もかも嘘だったことがわかる。キリスト教では、隣人(知らない人)にも施しなさいと教える。アメリカの人は(建前上は)隣人に優しい。そうして差し出された善意を「いらない」と断るのは失礼だ...しかしそれが後の悲劇に繋がる。 アニーはエレンが残したアルバムに、エレンと同じくペイモンのペンダントをぶら下げたジョーンの姿を見る。ジョーンもカルト教団の信者で、悪魔崇拝者だった。ただピーターを悪魔に捧げるために、彼女に近づいたのだ。

3つめのタブー:カルト教団を信じること 


ガス・ヴァン・サントの『エレファント』で、「2000年の歴史がない宗教は全部カルトだ」というセリフがあった。カルト教団からは、いかなる理由があっても、絶対に距離を置かなければならない。ぜったいに。カルト教団の考えることは常人の常軌を逸している。カルト教団は間違った目的のために間違ったことをする、しかも手段を選ばない。そして周囲の人々をどんどん不幸にしていく。内側から蝕む病気のように。

悪魔はどこにでも忍び寄ってくると聖書には書いてある。そして知恵のある人ならそれを蹴り飛ばしなさいと繰り返し教える。カルト教団にはいついかなる時でも、近寄ってはいけない。理由はない。ただ、ダメなのだ。

最終的に怖かったこと

以上3つのタブーを平気な顔でブチ壊していくことが、わたしを完膚なきまでに打ちのめしたわけだが、一番怖かったのは、「悪魔を信じるようなカルトに入ること。そしてその目的のために、家族をゴミのように扱って利用する」ということだった。悪魔が怖いんじゃない。悪魔は怖くない。悪魔を信じてしまうこと、そのために家族を利用してしまうこと、そんな恐ろしいことをしてしまう人がいたのだということが怖かった。アリ・アスターは実体験に基づいて、セラピーのようにこの映画を作ったそうだ。そして「みんなが絶対に見たくないもの、聞きたくないものを見せようと思った」と語っている。

(町山智浩)で、いちばん人間が嫌なものっていうのは一体なにか?っていうと、自分の親から拒絶されること、愛されないことなんですよ。で、「どんな映画でも大抵の映画では母親の愛、父親の愛というものはいろいろとひねくれたりした形でも、やっぱりそれは絶対に信じられるものなんだ。それは否定されない聖域なんだ」っていう風に監督は言っているんですね。

監督の目論見は大成功だ。「家族は信頼できる」という基盤をズタボロに崩され、立ち上がれなくなってしまう。もう本当に泣いて許しを請いたくなるような2時間だった。俳優陣の演技、映像の編集やカット割りはもちろん、さらに音の使い方も見事で、イヤ〜〜〜〜〜〜な雰囲気をずーーーーっと保って画面の不穏さをめちゃくちゃ高めるのだ。ハンス・ジマーやトレント・レズナーが作る、音楽的に調和の取れた美しい不穏さとは違って、映画の内容を表すようなただ恐ろしいばかりの不穏な効果音が鳴らされる。この音が違ったらまた映画の印象もずっと違ったものになっていただろう。

ちなみに監督の短編などはYouTubeでも見られるそうです。時間がある時に見て見たいと思います。


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