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何者にも頼らず自分の足で立て

私は私と はぐれる訳にはいかないから

他人より自分を大事にしろと言われるので、自分を大事にしようと思った。そこで依存元を断った。だがそれで気づいたのは、基本的に自分などどこにもなかったということだ。

自分などというのは単なる形骸で、他人に拠らないと、他人と関わりそして愛さないと、人間などただの骨人形なのであった。他人を愛せるように自分を愛せたらどんなに良いのかわからない。支柱を喪った建物が崩れるように、わたしはただ崩壊した。

私は両親親類縁者友人その他から溢れるような愛を注がれて生きてきたので自己肯定能力が自然と高まるはずだがそうはいかなかった。

身体のどこかに穴が空いていて、その穴から無限になんらかのちからが無限に湧き出る石油のように溢れ出ていて止めることができない。以前何かを猛烈に愛していた時に出ていたエネルギーがダムの放水のようにただ身体から漏れ出している。

その結果、他人に関与しないで自立しようとする→自分のことは基本的にどうでもいいので、全くケアしなくなった挙げ句人前に出られないような有様になる、という経路をたどった。

この負のループは客観的に見てヤバい。自分の身体が嫌い→ケアしない→さらに嫌いになる→さらにケアしなくなるが無限に続く。大嫌いな人と24時間一緒にいれば精神が削られるでしょう。そんな状態に自分を追いやってしまっているのがよろしくないし、ボディポジティブとか言いながら自分を一番肯定できていない。

私が誰にも愛されないのは自分が醜いからだみたいなグリム童話に自分を追いやり、三次元ではそこにプリンスもプリンセスも現れないのでなにもかもおしまいになる。美女と野獣ってあったよな、野獣のもとに美女が来て勝手に愛してくれる話だ。あれは二次元だから成立するものであって、野獣を愛してくれる美女なんかいないよ。いないんだよ。

何者にも頼らず自分の足で立て

厄介なのは実際に家族を持って諸々なことに囚われていればそれはそれで呪詛を吐くし、そうでない限界独身女性であればこんなことを言い出すというまじで三次元って地獄しかないんじゃないかということで、いやー天国ってどこにあるんでしょうねえ。

救いというのはおそらく、日常に断片的に現れるなにかだ。喫茶店のモーニングであり、このクソ熱いなかの朝の散歩で見る木の陰であり、プールで遊ぶ楽しそうな人々であり、友人からもらったちょっとうれしいひとことだったり。エリス・レジーナとアントニオ・カルロス・ジョビンの「3月の雨」の散文詩のような歌詞に出てくる取るに足らないもの、それらが人間の心を救ってくれる。

それは降る雨 それは、三月の水の川辺の会話 苦労の終わり それは足 それは地面 道路を歩く

もしくは「My Favorite Things」でもいい。こういう、日常の取るに足らないもの。

バラをつたう雨だれ
子猫のひげ
ピカピカの銅のやかん
暖かい羊毛のミトン 紐でしばった茶色い小包
これらはほんの一部
わたしのお気に入りたち

そういう、人間が抱える大きな業とその合間に見られる小さな幸せのアマルガムによって人生というのはできている。ピクサーの「ソウル」でとてもわかりやすく描かれていたのでお暇があったら見てね

どう考えてもインプットとアウトプットが見合わないので引退します、というのならなるほどとうなずくし、それを止める手立てはない。

それは小枝、それは石 それは道の終わり
残された切り株 ちょっとさみしい
ガラスの破片 
それは人生 それは太陽 それは夜 それは死
それはワナ それは釣り針
野に繁るペローパの樹  木の節目
カインガ、カンデイア、それはマチッタ・ペレイラ


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