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カバ その10

世間はお盆休みだそうで、仕事のメールをしても誰からも帰ってこない。家の掃除をして、ビックカメラで買ったモデムの設定に四苦八苦していたらカバが訪ねてきた。

「今日も暑いですね」

ツイードのハンチング帽を取りながらカバが言った。テレビではオリンピックの水泳競技が流れている。

「忙しかったですか?夏休みだから」

カバに聞くと、

「そうですね。でもみなさん動物園から早く帰って行かれるので、実はお盆というのはそれほどは忙しくないんです」

と言った。冷蔵庫から冷やしたルイボスティーを出して、コップに注いでカバに出した。つけっぱなしのエアコンは除湿をするとともに、快適な冷気を出してくれている。

「西田さんは帰省はしないんですか?」

「この前帰ったばかりなので、お盆は帰りません。まあ、帰っても、甥や姪がたくさんいてにぎやかだから、わたしはいてもいなくても一緒なんですけど」

人が少ない東京は心地がよかった。わたしはソファに座って水泳の中継を見ているカバに向かって、最近気になっていることを話した。

「最近、驚いたことがありました。机の上に、二人の腕が乗っていたとしましょう。その時に、一人の腕だけが、自分に意味を持って見えるんです。形状としては、どちらもたいした差異はありません。何センチかの違いしかない。それでも、ひとつの方だけが、ものすごく素敵で、触りたいと思う。それがすごいでしょう。よくわからないんです」

カバは答えた。

「へえ、そうですか。なんだかそれは、捕食みたいですね。わたしはなにかを見たときに、わたしは、これは食べられる、これは食べられない、と無意識に判断しますから。サバンナだと、それはすごく重要なことなんですよ」

その答えは割りと腑に落ちた。

「まあ、そうですね。これはケーキだからおいしい、これはスポンジだからおいしくないって、わたしも見た瞬間に判断しています。それと同じで、あちらの腕はおいしくないけど、こちらの腕はおいしいと思う。だから食べたいと思う。そういうことを、視覚だけで判断しているんです」

カバは驚いた目で私を見た。

「ぱくぱく食べたい?」

「はい、ぱくぱく。」

カバは小さな目を大きく見開いて言った。

「視覚だけで!実際の味というものは、味わってみなければわからないでしょう。でも、進化というのはそういうものなのかもしれませんね。実際に食べてみて、毒だったら死んでしまいますから。視覚を発達させて、判断できるようにしているのかもしれません」

わたしの答えは出ていた。

「それが欲情というものなんだと思います。もちろん腕そのものだけを見ているのではないんです。腕そのものに欲情するのは、フェティッシュと呼ばれるものです。でもそうではない場合、その腕が帰属する人物に所以することからその欲望が生まれる」

「欲情。それはどこにあなたを導くものなのでしょうね。生物学的な実現にあなたを導くためにあるものなのか、それとも全く関係がない、生物としてのエラーなのか。あなたたち人間は、欲情をもっとも大きなモチベーションとして、全ての物事を決断しています。それなのに、欲情を存在しないものとして、何もかもを進めている」

まあ、カバの言う通りだと思う。「Elephant in the Room(部屋の中の象)」というやつだ。あまりにもそれが大きいので、すべての人が見てみぬふりをする。誰も言及することができない。このエラーがなければ、世の中は多分いまよりもだいぶすっきりと進むんだろう。でも同時に、このちからがなければ人間は立ち上がり前に歩くことすらできない。

「確かにエラーなんだと思います。わたしはその人の鼻の角度がすごく好ましいと思っている。それはその人に帰結するものだからその鼻が好きなのか、その逆なのかはまったくわかりません」

「公園のすべり台の角度がちょっと上を向いているから好ましいとか、そういうことですか?」

「意図されたデザインの根源にたどり着いたときに共感できるかそうでないか、ということは、確かに好みの問題です。わたしはそのデザインに共感し、賛成している。だからたまらなく美しいと思う。その根拠は、そもそもわたしが、その人が言うことが正しいのだと思っているからかもしれない。そうやって人間のデザインに共感するというのが、人間そのものに帰結する場合、わたしがその存在そのものを賞賛しているということになります」

「西田さんが戸惑っているのは、その根拠が何もないということですね?」

「そうです。確かにそう感じるものがここにあるのに、それを確定するだけの根拠がなにもない。ここにあるのは、ただそれを無条件に好ましいと思っているということなんです」

根拠が何もないから、その相手に何も提示することができない。カバは言った。

「だから後ろめたいんですね。根拠がないから。西田さんは、根拠があるものを提示することだけがこの世界での正しいやり方だと思っている。でも実は、そうではないんですよ。たくさんの科学者が、同じ条件のもとに実験をするとする。そうすると、同じ結果が出るでしょう。その結果は純然として存在する。でもその結果に共感が出来るのかどうかは、全然違う問題です」

「結果は出ていても、感情はコントロールできないんです。わたしの感情は、わたしのものでしかない。それを誰かに言ったとして、なにか意味があるんでしょうか?」

ルイボスティーに入れた氷をくるくる回しながらカバは言った。

「西田さん、意味とは何ですか?大多数が賛同する意図ということですか?どうしてそんなにこの世界におけるルールに順応しようとするのですか?そのルールからはみだしたとして、誰かに糾弾されるとしてもあなたの生理機能が停止するわけじゃない。まあ、死んでも別にいいじゃないですか。あなたはそう思っているでしょう?」

たしかにまあ、根拠がないことをこの世界で言うのはものすごく勇気がいることだ。でもその勇気が、何を守るための臆病さなのかは、今まで考えたことがなかった。

「西田さん、あなたの心臓を切り拓いて、それを見せてください。あなたはあなたが思っているよりもずっと強い。包丁で指の先を切っただけでもあなたは死ぬんじゃないかと思っている。でもその胸を切り拓いて、心臓を見せたとしても、あなたはものすごく強いから絶対に死なないんですよ。あなたの想いを切り拓いて見せるということは、きっと、ものすごく気持ちがいいことだと思います。大丈夫です。というか、そもそも死んでもいいんですよね?あなたが最も恐れているのは、死ではないのだから」

肉体的な死は怖くない。わたしはもっと違うものを恐れている。だからこそなにかが存在することに、その存在に感謝することに喜びを感じている。

「あなたがこの世界で言ういわゆる失敗をしたとしても、大丈夫です。わたしはここにいます。動物園から逃げ出してきたカバとして、あなたの話を聞き、できるだけその意図を鑑みる努力をします。あなたが感じていること、考えていること、そこになにひとつ間違ったことはない。それを聞くために、休日の夜にわたしはここにやってきます。あなたはこの世界のエラーに対して、心から悲しんで胸を潰している。それがわたしにも悲しいんです。でも本当はそうじゃないということを、知っている人は必ずいます。だから、何をしても、あなたは大丈夫なんです」

カバはテレビのなかで、ゆうゆうと泳ぐオリンピック選手を眺めながらわたしに言った。確かにそれはそうかもしれないなと思った。


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