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ひいおばあちゃんと子供の日

鍬肩に 月影ふみて帰る宿の 垣根に匂う 白菊の花

これは私のひいおばあちゃんが詠んだ歌で、記憶にある2首のうちのひとつです。ひいおばあちゃんは愛媛の農村に暮らし、名を春といって、みんなから「はるさん」と呼ばれていました。はるさんは私が生まれる前に亡くなっているんですが、ではなぜこの短歌を覚えているかというと、それは母の実家の玄関にその書画を飾ってあったから。きっと自信作だったんでしょう。

この短歌を声に出してみるとカ行の多いことに気づきます。クワ、カタ、カゲ、カエル、カキネ、キク。Kの音がカツカツ刻まれる凛としたリズムが、いちにちの労働を終えて涼しい夜道を歩く足音となって舌先に響いてくるようです。つい最近この歌の正確なところを親戚に確認して、私は「匂う」を「香る」と間違って覚えていた、と知ったのですが、これはたぶんカ行の連続がしっくり来ると感じたからかもしれない。けれどもあらためて考えると、「カキネにカオル」とKの子音が後半まで連なると、花を愛でる減速が魅力になっている歌のやわらかさが損なわれる気がします。「香る」と「匂う」にはそれぞれの趣があるけれども、ここではやはり「香る」と俯瞰からうたいあげるよりは、人がふと足を止める能動的なうごきを感じさせる意味でも「匂う」が相応しい。のではないかと思います。

鍬を肩にかついで帰る農夫が、垣根からただよう匂いに気づいて花をみる。
月と地面にはさまれた上下の視線の動きも良いけれど、しかしじっさいの春さんはお嬢様で農具を振った事はなかったそうです。それどころか家事をほとんどせず、植物を愛でることと、服と歌、ほとんどその3つにしか興味がない、非常におっとりした性格で、町の人から変わり者として知られていた。曽祖父の貨物船が嵐により沈んでしまい貧しい暮らしをした時期もあったというけど、家族は彼女に手伝いを求めることはなく、はるさんは生涯を自らの趣味に捧げて過ごしたのでした。

もうひとつ、はるさんの歌を紹介します。


菖蒲生けて おのこを祝う うちのぼり 鎧に花の 風香るなり


子供の日をストレートに詠んだ、新緑の時期の喜びと子への愛を感じさせる、ささやかな日記のような作品。オーという音がリレーし合うように手をつなぎ、のびのびとした空気を広げたあと、ここでは先ほどとは反対に「風香るなり」とKの重なりがさわやかな締めになっているようです。

はるさんは3人の息子を産んで、長男から、三郎、四郎、五郎という名前なのですが、おそらくこれは三郎から付けたから引き返せなくなったんでしょう。しかしどうして一郎と二郎をとばしてしまったのか。今でもちょっと身内の笑い話になっています。

はるさんの夫、私の曽祖父は穏やかな人だったそうで、娘2人によく反物をみせては反応をうかがい、気に入られなければすぐにかわりを探したのだといいます。はるさんに対してはとりわけ優しく接して、君は居てくれるだけでいいのだと、彼女の領分を干渉しなかった。「夫婦はどちらか片方おっとりしてるのが大体よくある話でしょ。でもはるさんのところは両方だった」というのは叔母の言。

はるさんは紅葉や見頃の花を求めてはよく外出して、その際には誰にも告げず置き手紙を残しました。夕暮れ時にかえったあとはその日の記憶と向き合い、自室で墨を擦って和歌を詠む。それを知る近所の人たちはときおり和紙をプレゼントしにやってきてくれるから素材に不足する事がなかった。はるさんは、そのお返しをする様に、完成した作品を見せにどこかへ行ってしまう。また置き手紙を残して。

戦時中、はるさんは屋敷の雨戸を閉め切って、当時半ば禁止されていたハレの着物をみにつけ、暗い部屋で、いつまでも三味線を弾いて歌っていたと言います。この時ばかりは注意しなければいけないのではないか、と曽祖父は真剣に悩んだ──これもひとつ笑いの種でした。私はそれを子供の頃になんだか昔話みたいだなと思って聞いていたものです。

写真のなかのはるさんは雛人形のように涼しげな顔をしていて、そこにはいかなる影も見てとれないほどのつるんとした品があるけれど、他方で、この歌は若者がつぎつぎと徴兵される時代に詠まれたものであり、そう思うとなにか、祝いの晴れやかさのなかにも複雑な情が感じられてきます。鎧と花(当時の価値観では、としますが、これは男と女と言いかえられるでしょう)の対比は春さんにとって切実なテーマだったのかもしれない。戦時の多くの人と同じように。この歌でもやはり匂いのイメージが静かに場を包もうとします。もしかしたら、はるさんは世に漂う色や香りを自分自身の存在と重ねていたのではないか……。

そのように考えるうちに、もっと歌の中に残る浮世離れした春さんの愛した田舎の景色を覗いてみたい、今なら崩し字を取り込んでくれるアプリもあるそうだし、と思って、GW前に親戚の家に電話したのですが、結果は残念なものでした。

「つい1週間前に私も春さんのこと考えてて、欲しいなと思ってたの。やっぱり血が繋がってると同じこと思うんかねぇ」と親戚は笑いました。叔母は小学校に上がるころ春さんを近所の公園に誘って小規模な花見をたのしんだ。帰ってからすぐにはるさんは筆をとって、その日の情景をいくつも歌に詠んでそれを叔母にプレゼントしたのだそうです。

「あの時のこと思い出すと暖かい気持ちになるのよ。でもその紙はもうどこへ行ったかわからない」

今日また連絡した、心当たりの親戚3人もやはり歌は手元にないと言いました。最有力と見立てていた人は、「はなれに歌の書かれた半紙がたくさんあったんだけど、2年前の建て替えで消えてしまった」とのこと。

我々──というか自分がなにかしなければ、ひいおばあちゃんの残したたくさんの歌は顧みられないまま消えるのかもしれない、と意識し始めたのは本当に最近のことで、これがあと少し早ければなと思うけど、でもそういうのって後付けの感傷でしかないですからね。悔やんでも仕方ない。いずれにせよ、はるさんの2つの歌はこれからも大切に記憶するつもりです。どのようなものであれ、誰かが言葉を解凍することで詩は今を生きる、という当たり前のことを思います。


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