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論争不要だが批判されるのは必然

『歎異抄』第十二条②

最近は専修念仏派の人と聖道門派の人が
自分の派の思想が優れていて
それ以外の思想は間違っていると
仏法論争を引き起こしています

そのような状態だからこそ
宇宙の真理に抵抗したり
その法則を貶したりする人々が出てくるのです

しかしこのことは
己が信じている思想自体を
結果的に貶めていることに
なるのではないでしょうか

たとえあらゆる仏教の宗派が
念仏はつまらない人間のものであり
その宗派は浅はかで低俗なものだと言っても
私は反論して争おうとは思いません

唯円のような生来の凡夫で
文字が読めず学問もできない人間は
このしくみを信じれば楽に生きていけると聞いて
それを信じているので
偉い方々にとっては下品な考えだとしても
私にとっては最善の教えなのです

たとえ他の教えが優れていたとしても
自分の器量では学びきれず
完全に修養することがかないません

どんな人にとっても
生死の苦しみから楽になることが
この世で望まれるていることなので
他の人の考えを邪魔したり
それはおかしいなどと言わなければ
誰も争いに参加するものはいないのです

そのような論争をしているうちに
他の余計な煩悩も湧いてくるものです
理性が働く者はそんな争いはしない方がいい
という親鸞先生の文献も残っています

親鸞先生は次のようにも仰いました

宇宙の流れを信じる人もいるが
この考えを中傷する人も必ず出てくるものだ
お釈迦様は説かれている

私自身はこの起きることが起きているという
他力の法則を深く信じているが
時にこの他力をバカにする人に出会うと
お釈迦様が説かれていたことは理にかなっている
と知ることができるのだ

こんな風にお釈迦様の考えが正しいのであれば
我々がこの批判されがちな考え(宇宙のしくみ)を取り入れると
気持ちが楽に生きていけるようになる
という思想も確かなものに感じられるだろう

万が一ほとんど悪口を言う人がおらず
全員に賛同されるという場合には
どんなに信じる人が多くても
批判する人がいないということはなぜだろう?
かえってどういうことか?と疑問に思う必要がある

こんな風に言ってはいるが
必ず誰かに批判されようと
わざわざ嫌われるようにしようというのではない

この世の真理を広めようとする時は
それを信じる人もいれば
必ず批判する人もいる
ということを
お釈迦様は説かれていて
批判されたからといって弱気になり
宇宙のしくみを疑う心が起きないように
という意図で説かれているのだ

と親鸞先生は仰いました

ひるがえって今の世の中では
学問を使って人の批判をやめさせようと
議論や討論ばかりに力を入れているようです

学問によって仏教の真の内容を理解でき
あらゆる存在のしくみが広大であると知ることもでき
自分のような卑しい人間には
心安らかに生きていく資格はない…
などと思い込んで苦しんでいる人々にも
宇宙の法則というものは
この社会でいう善人も悪人も
清浄な人も薄汚い人も関係なく

すべての存在に価値があるということを説いているのだ
と教え聞かせることができるのであれば
学者としての値打ちがあると言えるでしょう

しかしたまたま疑うことなく純粋に
その考え(宇宙の法則)を信じている人を
学問しなければ真の教えにはたどり着けない
などといって脅すのは
本来誰もが価値ある存在だ
ということを思い出すことを遅らせ
邪魔をすることに他ならない行為です

起きることが起きているのだという
この世のしくみを思い出すことを遅らせ
他人の道を迷わせる行為なのです

これは親鸞先生の教えから遠ざかる行為なので
意識してやらない方がいいでしょう
同時に自分の首を締めて
かえって生きづらくなる行為でもあるので
慎んだ方がよいのであります

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わざわざ嫌われようとしなくてもいいが
自分を生きようとすれば批判はされるものだという
アドラーと共通する思想がちょいちょい出てくるけど

要は論争に時間を使うのはやめて
すべての存在には価値があるこの世を楽しみませんか?
と言いたかったのかと

100パーセント賛同される状況は
相対性が必然のこの世ではおかしな現象であって
批判されるのは当然の現象なのだと知り
争うことなく心穏やかに過ごそうぜ!
なむあみだぶつと唱えても辛いことは起きるけど
この世のしくみを知っていれば
落ち着いて対処していけますから!

と一筆書き残しておきたくなるほど
念仏派と学門派の論争が激しかったんだろうな(^^;)

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