政敵を餓死させた理想者新井白石の墓所・高徳寺

中野区にある高徳寺は、徳川家宣の正徳の治を先導した儒学者新井白石の墓所として知られています。

白石は、「生類憐れみの令」で悪評高い徳川綱吉の後を継いだ徳川家宣に抜擢され、奢侈禁止や学問の振興など、儒教の理念に基づいた改革を推進しました。

白石にはどうしても許せない政敵がいました。

それは綱吉の代から幕府の財政を担っていた勘定奉行の荻原重秀です。

重秀は貨幣改鋳などで、幕府の財政を建て直した実務家でその有能さは、綱吉の政治を悉く拒絶した家宣でされ一目置いていました。

白石は儒学者の立場から重秀こそが政治に腐敗をもたらす大悪人として、執拗に追い落としを画策し、ついに重秀を罪に問い、幕閣から排除します。

一説では、白石は捕らえた重秀を閉じ込め飲食をさせず餓死させたという話もあります。

重秀は、ケインズより200年も早く名目貨幣の考えを実践した天才でありましたが、彼の死は、日本の貨幣政策を明治維新まで遅らせることになりました。

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