Moral
夜中の、そうね、十時すぎくらいだったかしら? 太めの男の人が住宅街を走っていたの。Tシャツとハーフパンツ姿で。ドタドタとした足取りで、走り方なんててんでなってないって感じなの。息をぜいぜいと切らして、今にも倒れそうだったわね。あまりにみっともなかったから、私は思わず振り返ってその男を見てみたの。そうしたら、案の定というかなんていうか、その人、もう走ることをやめて、よたよたと歩いていたわ。いったい全体なにがしたいのかしら? よくわからなかったわ。でもその人のことはどうでもいいの。誰だかも知らないし、もう二度と見かけることすらないだろうから。そのときね、私は従兄弟の太くんのことを思い出したのよ。思い出したというよりも、パッと閃いたって感じね。天からの恩恵みたいに。もうその男の人が太くんなんじゃないかって思ったくらいよ。そうは言っても、私は太くんの外見なんて知らないのよ。もう十五年以上も会ってないんだから。ただ母親からときどき話を聞かされたせいで、私の中にイメージみたいなものができあがってたってわけ。母親によると、太くんたらもう何年も自室から出てきてないんだって。実際に一歩も出てきてないのかは知らないわ。たぶん、少しくらいは出てるんじゃないのかしら? だって、トイレとかお風呂とかは自分の部屋にはないでしょう? それなら部屋から出ないわけにもいかないわよね。いくらなんでも、何年もお風呂に入らないなんて考えられないじゃない? 頭が痒くて死んじゃうわよね。それはともかくとして、太くんはそんな生活をおくっていたわけ。おじさんとおばさんも、まあ、困ってたわよね。でも、うちとしても話を聞くくらいしかできないし、何年も会ってない従姉妹が出向いたところで話すことなんてないわよ。ほとんど他人だもん。なまじ少し知ってる分、他人よりも距離感が掴みづらいと思うわ。その太くんがね、どういうわけか、ある夜に部屋から出てきたんだって。それからどうしたと思う? おもむろにスニーカーを履くと、家から出て、走り出したらしいのよ。おじさんとおばさんは寝ていて気がつかなかったんだって。察しのとおり、そんな生活をしていたものだから、太くんはまあ、ちょっぴりおデブちゃんだったわけ。その彼が唐突に走り出したのよ。ちょっとびっくりよね。それで、どうなったと思う? 彼ね、自宅から数百メートル離れたところでうずくまっていたところを発見されたんだって。どうやら膝を痛めちゃったらしいのよ。そりゃあ、当然よね。部屋にこもりっきりだった人がいきなり走っちゃったんだから。それでね、私はあなたに訊きたいんだけど、この話の教訓はどこにあると思う?
ぼくはしばし考えてから答えた。人はいきなりは変われない?
ちがうわ。彼女はきっぱりと言った。準備運動は欠かすな、よ。
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