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雑草が無駄の価値の差を生む。

TikTokを見て過ごす1時間と、分からない模試を解かされる1時間は後者の方が絶望感が強い。勿論、意義としては後者の方が濃かったりもする。

実際価値と体感価値の乖離は何故起きるのだろうか。いや、それについて考察するよりも、乖離させることにマーケティングやコンテンツの質が求められると考えた方が簡単ではないだろうか。そしてこれは資本主義の上に成り立っていると感じる。

物々交換という実質価値から開放され、信頼性で社会をまわせるようになった今、快適な物がバズり、快適な物が良いものだと評価されている。

TikTokのストレスの低さにはあまりに驚くところがある。本当に気付けば3時間経っていたりする。(ほんとびっくり!)

私の最近思うところは、寧ろストレスにこそ本質があると思う。「ストレス」という言葉で表現される不快感は漠然としていて私たちの心身を蝕むだけであるが、言語化すれば、それはヘーゲルの言う矛盾であると思う(最近知った言葉を使いたいだけです)。そして、その矛盾と向き合うことによって自分の価値観がアップデートされ、新たな価値観を得ることが出来る。

一方TikTokをはじめとする(?)ストレスフリーなコンテンツ、受験勉強がこれに入るのか否かについて最近悩んでいるのだが、これを無我夢中にやり続けていても矛盾とは向き合うことが無い。コンテンツは最適化、合理化され、実行しやすいように先人達が広い知見を用いてセメント固めにされているからである。雑草はセメントの下に隠れている。ご存じの通り雑草もセメントから頭を出すことがあるが、あなたの見ている景色に生まれる雑草は後ろに歩いている者が確認することになる。

よって合理化が招いた不十分感を横目に我々は歩き続けてしまう。もしかすると激ムズ模試に対する「ストレス」はそういう要素を持っているかもしれない。しかし、そのストレスはTikTokを見終えた後と同じものかと言われればハッキリと否定できる。この差は何であろうか。この言語化できない部分こそが雑草の楽園である。


余談だが、最近問題だと感じたことをすべて資本主義と絡める癖が出来た。というのも割としっくりくるからである。体感としては67%くらい。でも33%は自分でも良くわからない。前近代と近代とか、現代とか、私たちの歴史について深く知ることでより深い論述が可能になるであろうが、資本主義を理解するために何を読めばいいのかが良くわからない。資本論は長いし、最適コンテンツ誰か創ってくんねえかなあ!!(

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