言葉って難しい
基本、空手に触れたこともないような人のことは門外漢…埒外の人と考えてる。
全くわからないのだから、意識のズレもあるし理解できないことも多いはず。
では、始めてどれ位経ったら、経験者となるのかというと…その人次第。
何を目安にするかというと…実は稽古の取り組み方や、集団への接し方。
知識なんて体を通しとけば、必要なときには出てくるもんだし。
技術や体力なんて、1年もすればそれなりにはなる。
その場で人の話を聞けて、試行錯誤して、自分なりの回答を得られるのが理想よね。
そして、そうなるまで同じことの繰り返しでも、付き合えるのが指導者の役割だと思う。
集団への接し方はなぜか?
敵を倒すのみが目的やないからよ。
集団としての和を保ち、利害を調整し、味方を作り敵を減らす…
こういう志向が無いと、単なる暴力への加担になる。
道場というのは社会性というものを学ぶ場である、と思ってる。
綺麗事?
この上ない現実的な視点だと思うけどね。
この辺を見定めても、実は初段はスタートラインでしかない。
つまり、黒帯でようやく初級者なのよ。
それまでは、単なる経験してるだけの素人よね。
私はどうなんだ、と?
私はねー…とっても微妙な立ち位置。
素人ではない、というのはとりあえず言われるけど…その後に「弱いけど」がつく。
私としては単なるいち修行者…空手を習ってる人(てぃーならやー)のモドキなので、その程度が妥当かな、と。
要は「下手の横好き」やね。
で、ちょっと出てきた約束組手。
申し合わせて同じ動作を繰り返す、ぬるい練習…なわけないからね?
最初は、ゆっくりやって動作覚えたり、タイミング考えたりするんだけど…
段々と全力でその動作をこなして、
掛かり手は相手を倒すように動き…
受け手は、反撃できるようにギリギリのラインで攻防する。
だから自然と反撃を更に捌いたり、と連続していき…ようやく自由組手になっていく。
自由組手も、本来はあくまで目慣らし
…動く相手に慣れて、対処を覚えるものなんだよ。
だからどんどん動きを試して、確かめないといけないから、殴り合いしてケガする時間がもったいない。
どうしてもみんな熱くなって、すぐに潰し合いになるけどさー。
そういうことなら、ヨーイドンやなくて…不意打ちから始めないと。
じじいらはやったそうやね、寝てるうちに忍び込んで袋叩きとか、複数相手への対処とか。
掛け試しもその一環みたいやし。
こうやって闘争に慣らしていったんやろね。
護身なんてのは単なるキャッチコピーで。
本来は効率良い暴力の道具。
だからこそ、あくまでも大事なのは人間性やからね?
人が悪けりゃ、技もたちまち凶器に変わる。
ま、キャッキャとボコり合うのも楽しいんだけどさ?
今回のは、「手だけで、腰から上という範囲での組手」…ボクシングごっこやね。
だから約束組手、と表現したのよ。
ま、いいんだけどね、やることは変わらんし。
きちんと稽古しないと、こうして楽しく遊べもしないよ?
ということで、誤解を生む表現を説明してみた。
…正直、伝わらんやろなー、とも思う。
ま、慣れてもらうしかないやなー。