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もう一度、やってみよう

何を書こうか悩んだんですが、
昭和55年生まれの43歳、松坂世代。

ただこれだけ聞けば、てきとうに
おじさんおばさんになった年代。

ですが、他人からすれば言い訳。
けれど、言い訳したくなるような
時代に生きる世代なんです。

うちは自営業だったし、親戚にも
勤め人(サラリーマンや公務員)は
いないので、小1は昭和62年の
バブルの頃、夏休みに光GENJIが
デビューした(←当時は国鉄がJRに
なるのよりこっちが私にはビッグ
ニュースでした😆)とか、その翌年の
お正月でも小1なのに1万円をお年玉で
もらうのが当たり前でした。
ちょっとしたことですが、バブルの頃を
覚えていましたよ。

ですが、小学校の間に昭和天皇は
崩御され、上皇様が即位され、
ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が崩壊し、
イランイラク戦争や湾岸戦争が起き、
なかなかの事態でした。

ラジオをよく聞いていたうちの子だから、
よく音楽番組も多かった頃でした。
あの頃たくさん曲が発売されては
消費しつつも長くかかっていました。

中二の終わり頃には円高。1ドル80円を
切りました。中三から高一では戻ったと
言っても1ドル90円。

中学を私立女子校に通うことになり、
高一ではフロリダ語学研修に参加。
家庭のお財布事情でまさかの私の
貯めてたお年玉をここで放出。
しかし、私はファッションには
そこまで興味はなく、学校行事に
活用される方が安心しました。

女子校に6年いると、何か息苦しい
こともたくさん。だから受験をしようと
考えたのですが、あえなく失敗。
残念ながら、付属の大学に行くことに。

河合塾では「名大英語」を受講してた
けれど、当時の私は名大は手が届かない
場所でした。母校よりも距離が近いのに。

何かモヤモヤしながらも大学にいる間に
取れる講座を受講し、頑張りました。

モヤモヤのまま大学院の受験勉強を
しましたが、見破られるに決まってます。

結局遅がけの就職活動するも、
卒業式前日に、何の因果か
名古屋大学工学部のとある
研究室にアルバイトの秘書として
決まりました。

そこに二年いて、二年目の一年間は
小劇場の派遣職員と二足のわらじを
しながら、公務員の就職試験を始め
たくさん採用試験を受けました。
地下鉄の嘱託職員の試験に一次は
受かりましたが面接で落ち、他も
大体は面接であがる為に全部落ち。

今で言うお祈りメールならぬお祈り文
ばかり受け取るので、私は生きてる価値は
あるのかな?と感じました。

キリがないので、居心地のよかった
研究室を二年で卒業、平行していた
小劇場の別の支店(名古屋市内に13程
あり、隣の区の小劇場から住んでる区の
小劇場に異動できるか尋ねたら、OKとの
ことだった)に移りました。

ここも居心地のよかった場所でした。
しかし、嘱託職員の試験に、技師で
受けたら落とされてしまいました。
事務屋だと企画しなくちゃならず、
私にアイディアが産み出せないことは
百も承知でしたからね。

ちょうど結婚も考える相手ができた
頃になり、別の派遣会社に問い合わせを
したところ、時給があがる、学校の事務を
紹介していただきました。
名城大学薬学部に、PTAのような大きい
組織があり、後援会という組織の事務を
しました。何とそれが、一人で八面六臂の
活躍を迫られるんです。

経理も総務も広報も、学部長秘書も、
他にも学部会議のお茶だしとか後援会の
お弁当注文やセッティングも。

先代の方が2ヶ月で倒れたというので
ピンチヒッターを探していたら私だった
そうですが、薬学部自体はいいけど、
全部を一人でこなすって、何て恐ろしい
場所なんだ!と。先代の方が倒れるのも
無理ない気がしました。

一年半勤めて、失業保険をもらい、
ハローワークに行くと、職業訓練の
紙を発見。ホテルサービスという
珍しいものを発見したので、中学の
復習ドリルを買って、母がその時
応援を頼まれたある議員の決起集会に
行く道中の近鉄電車(特急)に乗って、
勉強して合格し、訓練校に通いました。

結局私には結婚式場にもホテルにも
ご縁がなく、今度は何と名大病院。
場所が違えど名大二度目。
出産までの半年を勤めて、10年近くの
専業主婦生活をします。

その間に娘が発達障害と判明した後、
「これで娘がそう言われるなら、私の
方がもっとその傾向が強い気がする」と
感じました。友人の精神科医に頼んで
検査してもらうと、やはりそうでした。
しかし、その時36歳、障害者手帳を
もらえても、次には返納されるかもと
言われてしまいました。これでは
手帳の意味がない😭

ただ、私なりに就職活動する為の
塾に通わないとダメだと感じて
いたので、調べた結果LITALICOが
近くにあるので申し込みしてみました。
定員が満員で空きがないけど、新しい
支店が出来るからどうかと言われ、
名古屋駅前に、二年通うつもりで
訓練しました。

いくつか受けては残念ながら、というのを
二つ経験した後、名市大の食堂にパートが
決まり、LITALICOを卒業しました。

3ヶ月後、オールラウンダーにならねば
いけない職場に対して、何をやっても
上手く出来ない私は、試用期間が終わる
頃に統括マネージャー兼店長が試験に
来た際訴えました。すると、確かに
同時に二つのことは出来なくて辛そうな
様子だったけど、でも食堂を辞めるのは
惜しいから、異動先を紹介するという
話を持って来ました。

そして、何と人生三度目の名大。今度は
食堂の洗浄専門のパートとして、帰って
来ました。

名古屋大学の食堂の前に、三か月だけ
名市大(名古屋市立大学)の医学部食堂に
いました。小さい食堂なのでオールラウンダーが
欲しかったようですが、特にカウンターに
入ると私のような人間は頭がフリーズしてしまう
のです。試用期間終了前に統括マネージャー兼
店長が様子を見に来たのですが、特にやはり
カウンターでの仕事ぶりのもたつきは気になった
だろうと思います。私がもし彼女だったら、私も
同じ意見でした。彼女は「一生懸命な様子はとても
よく理解できたけど、とても仕事していて苦しそうだった」
と、かなりソフトな言い方にしていただいたものの、
洗浄やレジだけに専念できず、まさかのカウンター
ポジションが出来ない人間はこの小さな食堂では
使い物にならないということを宣言していました。
ただ、ありがたいことに「同じ大学生協の組合で
人材募集しているところ知ってるから紹介してあげる。
そこ、規模大きいから、職人(専門)でできるから」
と、統括マネージャーが紹介して異動したのが
まさかの名古屋大学でした。

2018年7月の話です。

折しも、現在中二になる娘が小三の頃です。
特別支援学級にお世話になっていました。
その特別支援学級の担任の先生や、連絡を取る
教頭先生、教務主任の先生は歴代とてもよくして
いただきました。特に1,2年の頃に産休の代用教員と
して赴任していたF先生は、後から伺うと先生たちの中でも
精神的支柱になるほど頼りになる先生だったそうです。
生徒のクセを見抜いて、うまく鍛える技のある先生でした。
特別支援学校(昔の養護学校)の教員免許は持ってないとの
事でしたが、持っていたとしても講師格だそうで、なぜ
正規の教諭格で採用されないのか不思議でしょうがない!
特別支援学級に欠かせない先生なのに、給料けちるとは
名古屋市もパッとしないな。福祉の名古屋の名折れだ!
そんなことを知ったのは、産休を終えて帰ってきたので、
F先生が学校を去った後でした。
母校でも他の先生方はとても優しい、厳しいけどよく
見ている、良く努力されている先生が多かったのですが、
ただでさえクセのある6人を2人で面倒見ているときも
大変な様子でした。それが、通常級だと最低30名は在籍している。
となると、昨今メディア教育だのキャリア教育だの、それって
私大学で初めて聞いた20年前のことを、もう小学校や中学校で
考えるとか、忙しくない?

だけど、民間企業だと否が応でも変わらないといけないし、
変わらないと文句言われますね。それが、どういうわけか
教育の現場というのは不可思議が多すぎるのですが、
何と明治のころから、国は教育に財源をケチっていた
らしいのです。自分で負担するべしと。

拒否するにしろ信頼してないにしろ、一度は学校に
お世話になる人生が現状大多数なのに、学校のシステムや
先生の処遇、先生と生徒と学校の関係など、学校の様々な
事は、物の発達もソフト面の発達も世間では世界スピードで
進んでいるのに、置いてけぼりを食らったまま。
例えば、大多数の公立学校では簡単に機材を断捨離出来ません。
また、先生や専門家がいないからって言って、先生が
頑張りすぎているため、下手すると倒れたり休職したり
している先生が多すぎるのです。

本来、先生(いわゆる専門家)がいなければ外部講師や
外部の専門家、せめて小学校中学校でも高校の情報の
教員免許を持っている先生(教免だけ持ってる社会人、
ペーパー先生など)を呼び寄せて、一緒にメディア教育
考えるとかする予算を付けてもらうとか、もっと英語の教免
持ってるペーパー先生等に声をかけて非常勤講師でもいいから
雇い入れるとか、「現場の先生だからわかる、ここは必要
ここは不要」という「ここが変だよ学校のシステム」を
聞いて、国も経済より教育優先に方針を変換してほしい。

などなど、娘が特別支援学級にいる間に、先生や学校の
負担がマシマシ(増加傾向)なのに、教育内容がさらに
モリモリ(これも増加傾向)で、それを知らずに親が文句だけ
言って先生を死に追いやっていないか?という様子を見る
ようになったのです。

自分が名古屋大学にいるとはいえ、今度は食堂のおばちゃん。
高校の頃、河合塾で名大と言えば「名大英語」だけは受講出来た
(英語だけ入塾テストの成績が良かった)のですが、名大に入って
何を勉強したいかなんて想像できてませんでした。

しかし、最近は内田良先生がよく学校関係の問題になると
ニュースのインタビュー(専門家の意見)として登場したり、
以前いた名市大に、高校の同級生が准教授として東京から
帰ってきて教えている内容が教育だったりしたことを知って、
「私、もし今度大学に入る機会が出来たら、教育について。
特に学校のシステムについてどうやって改善していったらいいか
だとか、改善方法をどうやって提案したら聞いてもらえるかを
勉強しよう」ということを頭の中でボヤっと考えるようになりました。

大学案内を取り寄せてみると、名大も名市大も編入は可能。
年齢制限もありません。

なるほど、というわけで、私はパートのお給料を
放送大学にて「教育」を勉強する費用に充てようと
考えました。さて、申し込んだ年が2020年3月。
あのコロナ元年です。令和が始まって間もなく
吹っ飛んだ印象になってしまった、あの年、
2020年4月からオンライン授業だけを取って
受講してたのですが、何を思ってオンライン授業だけ
取ったのか驚くほどですが、4年経過して、いろいろ
通信制大学というメリットを利用して、教育とは
何じゃらほいってのが少しずつ分かってきました。
10年計画で編入しようとしているので、今年は
(講座一つの値段が千円値上がりするため)よくよく
考えて講座を選ぶことにはなりますが、心理を
勉強してみようかなと。あと、勉強のコツの本を
読む機会が増えたので(うちの娘も4月になったら中三)
娘の受験に合わせて私の頭も受験情報の更新をすべく
受験勉強の今風の勉強についても研究しようと思っています。

えらい長くなったなぁ。

まぁ、43歳で、意志を持って何か学びたい、やってみたいと
ようやく思えた私の歩みを、ここではつづっていきたいです、
という前置きです。

学歴コンプレックスもずっとあったし、
ようやく機が熟したのかもな、と感じています。

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