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【エッセイ】ふりむけばナンシー

私はナンシー関さんを尊敬している。敬慕、敬う、崇める…その類の言葉なら大抵当てはまる位の存在だ。
ナンシーさんをご存知ない方もウィキぺディアにびっしりと紹介されているのでご参照してもらえるとより詳細に理解していただけることかと…。

それでも簡単に(簡単すぎるが)ご紹介するとナンシーさんは消しゴム版画家でコラムニストで連載をいくつも抱えていた超売れっ子でした。
ナンシーさんのコラムはテレビから得た情報を多角的な視点で消しゴムを彫るように鋭い切り口で世に問うていた。広めたというより問うたに近い。少なくとも私は問われた。
想像を絶する忙しさと決して健康的な生活とは言えない日々を過ごしていたのが原因だったのか…虚血性心不全で39歳の若さでこの世を去ってしまった。
私は高校を卒業してから知人に「これ、面白いよ」と譲ってくれた文庫本でナンシー関を知った。
既に亡くなった後にナンシー関という天才を知ったのだ。

少し本題から離れるが、私は自分の書く文字が好きではない。イラストも。録音で聴く声も。
他人は「見やすくて綺麗な字だよ」等と声をかけてくれる。お世辞か本音か正直わからない。
ただ、好きになれないという思いは拭えないのだ。
自分の作り出すものへの自信の無さ、薄さを自覚しつつも作ることへの充足感、憧れ、渇望は絶えないし求めてしまう。あまのじゃくで面倒な奴である。
自分を客観的に捉えることが出来れば安定した作り手になれるのではと、そこでナンシーさんの話に戻れるのである。

毒舌。歯に衣着せぬ発言。
度々ナンシーさんはそうくくられていた。
テレビの画面に映る人たちに言いたい放題していたわけではない。それはナンシーさんの文章の本質を見ようとしていないだけだと思う。キツイ表現、言い回しもある(ネット社会の現代だと尚更)
人を傷つけるかもしれないと立ち止まった時、現在ならギリギリアウトかもしれない。それだけ時代が変わったのか(良いか悪いか別として)
ナンシーさんの本を改めて読んでみると「!!??」と、かつては立ち止まらなかった私がこれって際どいよね…過激だよね…となっていることに自分自身驚くことがある。
正直戸惑ってしまう。
でも、ナンシーさんの言葉にしたいけど上手く表現出来ないんだよねという世間の大半が抱くムズムズ感を「それ!」と代弁してくれていた核心は不変だと思う。

全ては2002年以前の世界での話。
SNSの概念も20年も前なのだから人々の見えていた景色も現在とは違うだろう。

書籍はいくつもの段階を経て書店に並ぶ。
ネットでは壁を一つも越えずに人の目に届く。
良識は個人に委ねられている。

ナンシーさんがご存命ならどう捉え発信しただろうと何度も何度も考える場面に出くわした。
それは私だけではないことも知った。
それを知った時、安心と嬉しさが鯉が滝を昇るようにこみ上げてきた。そしていつか龍になれよと空を見上げている自分がいた。

ナンシーさんが今の時代にどう受け止められるのか、ここでまた自信が揺らぐのだ。
尊敬してるはずなのに、批判されるのではないかと臆病になるのだ。
ナンシーさんに申し訳なくなって俯いてしまう。こんな私は裏切り者だ、と…。

答えは出ないだろう。
折り合いをつけるしかないだろう。
ナンシーイズムを埋め込まれた私は(勝手に自分で埋めてきたんだが…)
ナンシーという御守りを心に潜めこの現実を生きてゆくだろう。

ナンシーさんについてはこれからもっと書いていきたい。
自分を見直す為に。
客観的に冷静な判断が出来るように。

ふりむけばナンシーさんは鼻で笑っているかもしれない。
やれやれと呆れているかもしれない。
トホホと項垂れているかもしれない。

ナンシーさん、どう思いますか?

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