【小説】将棋の滅亡(1/4)

 若い読者は知らないかもしれない。今から10年ほど前まで、「将棋」というボードゲームが人気を博していた。このゲームは、平たく説明すると、お互いに一手ずつ盤上の駒を動かし、相手の「王将」という駒を取ったら勝ち、というルールだ。日本版のチェスと考えてくれればいいだろう。
 私は当時、アマチュア代表として、プロ・アマ混合の将棋大会に出場していた。第1回戦であたったのは、将棋団体の会長だった。それまでの将棋のルールブックはそこそこ厚く、読む気が起きないものだった。しかし、この会長が就任してすぐに、ルールブックの厚さは4分の1ほどになった。今の時代に合わない、礼儀作法などの章はほとんど削除し、ルールの説明もより簡単な表現にしようということだった。私も一応ざっと目を通したが、確かにわかりやすかった。「なかなか仕事のできる会長だな」と私は思った。
 今回の対局は、お互いに持ち時間2時間。先に2勝した者が勝利だ。第一局、私は会長相手にかなり緊張をしていた。駒を指す手が震えるほどだった。試合は中盤まで、両者一歩も譲らぬ展開となったが、会長がうっかり悪手を指してしまった。将棋というのは、一度でも悪い手を指してしまうと、あっという間に逆転負けする恐ろしいゲームだ。このうっかりのおかげで、私は会長の「王将」を追い詰めた。次に会長がどんな手を指しても、私の次の一手で「詰み」、つまり王将がどこにも逃げられない状態になり、私の勝ちだった。ところで、私は最初に「将棋は相手の王将を取るゲームだ」と説明したが、実際には、王将がとられることが確定した時点で試合は終了する。わざわざ、実際に相手の王将を取るなんて無粋なことはしないのだ。そして実際の試合では、さらにもっと前にゲームは終わる。相手が「もう勝てない」と判断した時点で「投了」、つまり降参するのだ。これも、わざわざ最後まで指すのは無粋だ、ということなのだろう。私が、決定的な一手を指したとき、私の中で試合はもう終わった。アマチュアの私が会長に勝ってしまった。相手のミスとはいえ、感無量だった。私は安心しきって、会長の「参りました」という言葉を待っていた。
しかし、ここで最初の事件が起こったのである。会長は、なかなか「参りました」と言わなかった。誰がどう見たって、会長がどんな手を指そうとも、私の勝ちだった。はじめのうちは、念のため他に手がないか考えているのだろうか、とも思ったが、どう考えても長すぎた。記録係も少しざわついていた。この場にいた全員が、会長がなぜ「参りました」と言わないのか、わからなかったのである。なにか、とても居心地の悪い時間が生まれた。早く「参りました」と言ってくれないだろうか。いや、「参りました」と言わなくてもいい。何か手を指してくれないだろうか。そうすれば次の一手で私の勝ちなのだから。
 私が改めて会長を見ると、会長は足を崩し、あくびをしていた。そこで私は全てを悟ったのだった。このとき、会長の持ち時間は、1時間半も残っていた。この会長は負けるのが悔しくて、わざとこの1時間半、なにも手を指さない気なのだ。それは、単純に私への嫌がらせだった。そうに違いない。私は心底、会長を軽蔑した。
会長は、急に無言で立ち上がり、外へ出ていった。対局時間が長い大会では、トイレに行くなどで、席を離れることも許されていた。会長はしばらく戻ってこなかった。意味のない時間が流れ続けた。なぜ私は、将棋盤の前で、バカみたいにひとりで座っているのだろうか。これは、なにかの修行なのだろうか。記録係も明らかに戸惑っていた。
ようやく会長が戻ってきたかと思うと、その手にはコンビニのレジ袋があった。会長はそこから豚キムチ弁当を取り出し、私の目の前で平然と食べ始めた。おいしそうな豚キムチの匂いが部屋に漂う。無論、会長は自分の手を指す気など全くなかった。
「あの、会長、何か指してください。」
私はとうとう痺れを切らしてそう言った。いくら私がアマチュアだからといって、こんな侮辱は許されていいはずがなかった。
「まあ、まだ持ち時間はありますから。」
会長は、鼻で笑いながら答えた。それからしばらく、将棋盤を挟んで、目の前の男がおいしそうに豚キムチ弁当を食べているのをただ眺めるという、耐えがたい時間が流れた。私はふと、自分の駒が少しだけマスからずれているのが目に入り、自分の駒を整えた。そのときだった。
「今、なにか指しましたか?」
「え?」
「なにか指したら、二度指しですよ。反則ですよ。ねぇ?」
話をふられた記録係は明らかに困惑していた。私も混乱した。たかだか、位置を少し整えただけではないか。こんなこと誰だってやっている。
「いや、あの、整えただけだと思います。駒が、別のマスに移動したわけではないですし。」
記録係がフォローしてくれた。当たり前の話だった。会長は、なんだか不服そうに、また豚キムチ弁当を食べ始めた。
 そうして時間が過ぎていき、いよいよ会長の持ち時間がなくなり、秒読みが始まった。あと1秒で会長の持ち時間がなくなる、その間際に、会長は手を指した。あくまで時間切れ負けは嫌らしい。私は次の一手を指し、対局は終了した。会長は即座に部屋を出ていった。試合に勝ったのにこんなに惨めな思いをしたのは初めてだった。記録係が私をなぐさめてくれた。


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