【テキドラ】即席の彼女

 僕の目の前に、絶望の景色が広がっている。僕はただそこに立ち尽くし、涙を流すほかなかった。


 その日僕は、白い布団の上で寝ていた。その白さはあたかも僕の心の黒さを嘲笑うかのようだった。私は自分の体にのしかかる、純白という言葉は似合わないものの漆黒とは程遠い、言うなればまさに線香を燃やしたあとに残るようなグレーの布団を押し上げ、それと同時に自分のくたびれきった体を起こし、あたかもそこにいることが当然だと主張しているかのようなベッドに座ったのち、まるでつまらない授業を受けたあとの生徒のように立ち上がった。
 心の覚醒しきらないうちに、僕はぬぐいがたい違和感をもった。そこにある壁も床も机も、いつもそこにあったはずのものたちが、いつもとは違う顔、しかしそれは決して悪いものではなく、むしろ僕を受け入れてくれるような、温かい表情をしていた。しかし僕はすぐに、その温かい表情が押しつけがましいものに思えてしまった。僕には眩しすぎる、ふとそう思った。
「なるほど……。」
ほどなくして、僕は違和感の正体を理解した。僕の予想より遥か上に太陽が昇っていたのだ。今日のような労働を課せられない日は、本来であれば午後に起きても差し支えないのだが、私は決まって、労働を課せられる日と同じように起きることにしてたのだ。しかし、その日に限って、それはまるでこの後に起こる事件を予言しているかのように僕は午後に起きてしまったのだ。

 蛇口の下をのぞくと、僕は「万人の万人に対する闘争」と呟いた。市民たちの収集不可能な衝突の姿を思い起こさせるように、食器たちが自分のスペースを主張しながら積み上がっていた。
「僕は為政者ではない……。」
そうつぶやきながら、僕はその大混乱をおさめることをあきらめた。しかしそのとき、どこからともなく、あたかも小さな動物が困り果てているかのような鳴き声が聞こえた。僕はその鳴き声がどこから鳴っているのか、耳を澄ませる必要もなく瞬時に理解した。それは間違いなく僕の腹部だった。

 僕の入った店は、さきほどの大混乱とは正反対の、「秩序」と言う言葉がふさわしい場所だった。
「ここには政府がある。」
僕はつぶやいた。しかし、そこに並ぶ者たちに楽しそうな者は一人もいない。自ら考えることを放棄し、ただ選ばれることを待ち続けているかのような態度だった。さっきの大混乱の食器たちの方が生命力にあふれている。どちらが社会のあるべき姿なのだろう。僕が逃れがたい思考の渦にはまりそうになったとき、何者かが、自分の存在を僕に主張してきた。社会に管理された無気力な者たちの中にも、このように主張してくるものがいることは意外なことだった。
「私を選びなさい。」
そんな声が聞こえた気がした。私はいつも通り、1894年に勃発した戦争の名を冠した者を選ぶ予定であったが、不思議と彼女に吸い寄せられ、気づけば彼女を手に取っていたのだ。

 こうした経緯で、僕と彼女の同居生活が始まった。といってもそれは一瞬の間だけ約束されたものであり、すぐに彼女が僕に取り込まれてしまうことは目に見えていた。だが僕は彼女といることが素晴らしいことだと思えたし、彼女を見るだけで僕の心は熱くなった。しかし、それは無意識にも、近い将来彼女を味わうことになることを考えていたせいかもしれない。
 僕はさっそく彼女の心を覗き込んだ。その瞬間、僕の心臓に、こん棒で殴られたかのような衝撃が走った。彼女の心は、今まで僕が観たこともないような、とても複雑なものだったのだ。いつも通りであれば、すぐにも裸の心を見ることができたのだが、彼女は、その裸の心の前に、いくつもの盾を構えていたのだ。よもやこの盾もろとも彼女の心を熱さで満たすわけにはいかないだろう。僕は乱された心を落ち着かせた。
「簡単なことじゃないか……。」
僕がすぐにその盾をはぎとると、やはりそこには裸の心があった。あとはいつも通りことを済ませればいいだろうとも思ったが、しかし僕はこの盾の意味を考えなければならなかった。彼女の体を舐めまわすように見ると、僕にはその盾の意味がわかってきた。この盾を破壊し、その中身を彼女に与えることにより、彼女は本当の姿になるのだと理解した。盾は二つあったが、今使うのは片方だけで、もう片方は彼女の心を熱さで満たした後に使うらしい。
 僕は彼女の心を熱さで満たすため、液体に火をかけた。やがてそれは今の僕の頃を象徴するかのように沸き立ち、この部屋を熱気で満たした。
 僕は彼女の心に熱を与えた。彼女ははじめ、身を固くして、その熱を受け入れまいとしていたが、やがては受け入れ、柔らかさをともなった。彼女は今までの者たちと比べて特別な存在だったのだろうか、いつもはモーツァルトの「トルコ行進曲」にひたるほどの長さで十分であったのに、彼女の心をほぐすには、ショパンの「雨だれ」にひたるほどの長さが必要だったのだ。いつまで経っても「雨だれ」は終わらず、僕にはその5分間が永遠のように思われた。しかし、実際には永遠などというものは存在せず、とうとう「雨だれ」は終わったのだった。
 彼女はすっかりだらしない姿になっていた。悪くないと僕は思った。僕はもう片方の盾を破壊し、彼女の上にかけた。彼女の心はその液体に汚されていった。
「僕と彼女が融合するのにふさわしい場所はどこだろうか?」
僕はすぐにベッドに目をとめた。こうなると、他の場所は一切のふさわしさを失った。僕はそこを神聖な儀式にふさわしい場所と決めつけ、そこに赴いた。そして、そこから一瞬にして絶望の風景が広がることになる。

 嫉妬というのは恐ろしいものだ。実際僕は、たいていこういう場合は、ベッドではなく机を選んでいたのだ。しかし今日に限ってベッドを選んでしまった。それが気に入らなかったのだろう。机はあたかも嫉妬などしていないようなそぶりで、私の足を蹴とばした。いや、正確には、机ははじめからそこにあったのであり、私が机を蹴とばしたと言った方がいいのかもしれない。いずれにしろ、私は机の嫉妬を買い、机に復讐されたのだと言っていい。私の体は突如としてバランスを失った。彼女は、私のベッドの上に放り出された。そして、ベッドの上には、灼熱に沈められ汚された彼女の裸の心が無残な姿でさらされていた。それは、彼女の死を意味した。彼女の液体で、ベッドも一瞬にしてけがれてしまった。あたかも僕の心の黒さを嘲笑うかのような白は、二度と元通りになることはないだろう。もはや私になすすべはなかった。僕の目の前に、絶望の景色が広がっている。僕はただそこに立ち尽くし、涙を流すほかなかった。

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