誰かのためは誰かのためにならない

最近のXでは再入荷通知などをリアルタイムで流すようなアカウントがある。まあ最近というか昔から。アフェリエイト等で稼ぐために皆が興味がありそうなことをツイートするのだ。

ある意味でその製品を欲しい誰かのためになるかもしれない。まるでいいことのようだ。けれど誰かがそれを買えるということは、ほかの誰かが買えないということだ。そんなツイートに頼らずに地道に探しているひとからすると再入荷するたびに瞬殺されていくわけだからそんなツイートはいい迷惑以外の何物でもない。でもまるで誰かの役にたってるみたいにいう。ふざけないで欲しい。あんたのせいで迷惑してるひとはごまんといる。

これは別にツイートに限る話ではないだろう。何かが有限である限り、誰かがそれを手に入れるということは、誰かがそれを手に入れられないということ。そしてこの世界でだいたいのものは有限であるから、誰かのためにすることは、たいてい誰かのためになっていない。

たとえば友達の恋愛を応援したとする。そして無事に友達が好きなひととくっついたとする。友達からしたら嬉しい。でもその好きなひとを好きなひとがいたとしたら、その友達の行為は迷惑以外の何物でもない。もちろん友達は友達が大切でそのだれかなんて知らないわけだから悪気があるでもないしむしろ普通のことだ。そのひとの世界にはその誰かなんて存在しないのだから。

たとえばアニメのヒーローは悪の組織を倒す。いっぱんてきには正しいかもしれない。でも悪側からすればヒーローは自分を邪魔する存在でしかない。悪役のことなんてヒーローは考えない。それでもハッピーエンドになる。

私はグッズを集めるのが趣味なのでたとえもそれよりになるが、私ががんばって欲しいものを手に入れたとき、だれかが欲しいものを手に入れられないかもしれない。もしかすると私よりもそれを必要として愛しているかもしれなくても、そんなの関係ない。

要するにこの世界の多くは奪い合いで成り立っている。希少な資源を求めて戦争がおきるわけだし、領地の奪い合いから争いは起きる。グッズも数が少なければ奪い合いになる。そもそも人間が潤えば自然は破壊されるかもしれない。

何が言いたいかというと、結局誰かのために何がするというのは、ひとりよがりの偏った価値観でのみ成り立つ行為だということだ。だからむりやりいいひとぶったりするのはむしろ逆効果で何もいいことはない。いちぶのひとのみ利益を得るだけ。それも偏った好き嫌いの選別でしかない。自分以外のことまで考えたとき、みんながそろってしあわせになるようなことはないということだ。必ず誰かが喜ぶ影でだれかが逆の想いを抱いている。それを忘れて自分がいいことをしたと思うのはそうけいである。

もちろん自分の身の回りの見える範囲のひとを大切にするのはあたりまえで、そのひとたちのために行動するのは自然で、それを責める気はないし、そういうものなんだろうと思う。世界中の人のこと全てを考えて生きてるひとなんているわけないし、そんなことしたら身動き取れないし、本気で真剣にそんなことを考えたら解がみつからず気が狂ってしまいそうになると思う。

なので私が思ったのは全くの逆のことで、要するに不幸がわのことで、しあわせなんて感じられず親しいひともいなくて日々寂しさとともにあるような自分みたいな人間のことだ。いまの話の逆とは、つまり不幸なひと、うまくいかないひと、欲しいものが得られないひと、そんな人たちに対して慰めになるかわからないけど、その反対にあなたのおかげで幸せを享受してるひとがいるんだよということ。あなたが買えなかった(かわなかった)おかげで買えたひとがいるし、あなたが振られたせいで結ばれたひとがいるし、あなたが涙を飲んだおかげで笑顔になったひとがいる。どこかに。

こう書くと、自分が不幸な時に他人のしあわせなんか喜べるはずなかろうとも思うが、そりゃ目につく身近な他人ならイラッともするかもだけど、自分の世界にいない、でもどこかにいるはずの他人なら、自分の不幸もそれなりに意味があるって慰めになるんじゃないのかなあと思ったりもする。

もちろん幸せになるほうがいいだろうし、欲しいものは手に入る方がいいし、好きな人とは両想いになれるほうがいい。そりゃそうだ。でも仕方ないのだ。それは限られるのだから。かならず勝者がいれば敗者がいるように。

友達が多いひとや愛されるひとは、たくさん応援してもらえるから、勝率があがるから、余計しあわせになる、幸せのループだ。一方でその逆もしかり。友達が少なくて誰も手を貸してくれないひとは、愛される側の人たちの数のパワーにだいたい負ける。協力者がいないし、自分でがんばるしかないけど、ひとりでできることに限りはある。そして負のループに入ってしまう。心が荒んでいってしまう。自分のものを奪うのは周囲の幸福な人間だと感じるようになるかもしれない。ますます負のループだ。

ますます何が言いたいかわからなくなったが、間違いなくわたしは負の方のタイプなので、誰かのためになにかする人が嫌いだ。その人が余計なことをしなければと思ってしまう。思うに誰しもあまり他人のためになんて思わないほうが結果的に平等になるんじゃないだろうか。限定品でもなぜか友達の分とか買っていくひとがいるけど、そのせいで自分が欲しくて買いに来た誰かが買えなくなるのを何回もみてきた。そんなに欲しいならその友達も一緒に来いよと思う。友達のためといい気持ちでいるかもしれないけど、その余計なお世話が誰かの迷惑になっえることに気づいて欲しい。とも何度も思ったものだ。

思い返せば自分もむかしは代行とかよくしてた。フォロワーさんに喜んで欲しくて。でもあれも誰かの欲しいを犠牲にしてしまっていた。自分のぶんだけでよかったと今は後悔している。たしかにフォロワーさんは喜んでくれたけどよく思い返すとそれも単なる自分の価値をあげたかった自分の勝手な欲でしかなかった。全然フォロワーさんのためなんかじゃなかった。優しさの欠けらも無い。もちろん私の心情などはフォロワーさんにはどうでもよくて欲しいものが手に入ったのだから満足しただろうけど。

いまは仕事でも誰かのためになんて思わない。誰かのために何かをすれば、そのひとの成長とか成果を奪うことになるから。だれかのためとは大体が余計なお世話なのだと気づいたから。そして結局自分をよく見せたいとかそういうしょうもない自分の欲でしかなくて、本気で誰かのためになんて思えるほど自分は高尚な人間では無いことにだいぶ前に気づいたから。

強引にまとめると。ひとはだれしも自分のためのみに行動するほうが全体的にもシンプルだし公平だと思う。誰かのために何かをすれば、その余波は必ず知らない誰かに影響を与えることになるから。それはそのひとにしてみれば余計なこと以外の何者でもなくて、個人と個人の勝負なら負けても勝っても仕方ないと割り切れても、そのまわりの応援団の数で勝率が変わるならそれは悲しみでしかない。じゃあみんながみんな応援してくれる人を増やせるかというとそんなはずもなく、そもそも応援団も奪い合いなわけだし、コミュニケーションが苦手な人間に味方は増えない。まあある意味その性格が敗因と言われたらそれまでなんだけど。

うーん、全然まとまらなかった。
そろそろ仕事はじめなきゃー