警戒心を何に例えるかって人によって違うんだろうな。 私は包丁でも拳銃でもなく、落とし穴。 教える前に近づいてきた人はみんな落ちてしまう。
誰かというか、好きなひと達の記憶の片隅に残るような人間でありたい。 そのためには相手にとって魅力的に見える必要があって……とゴールを他者に置きがち。委ねてもいい事ないのに。
侵略される事をよしとしてしまうのはこれいかに。 自分の好きな人間がそうやって汚されて傷つくのは度し難い怒りを感じるというのにね。
私の感情はバケツをひっくり返した時のように勢いがある時もあれば、気付いたらとなりに立っているだけの時もある。 家の近くに線路があって、今は不幸じゃなくて、私を傷つける人とは縁が切れていて。 明日は晴れるかな?くらいの軽さで終われるかな、と思ったりもする。
時間が薬って言葉って時には慰めの言葉にもなるし、時には暴力的な言葉にもなるよね。 いったいいつ終わるんだろうね。
呆れた顔も見せずに私が立てるのを待ってくれてありがとう。 手を引いたり背中を押したりといった事はなかったけれど、私にはそれが心地よかったです。
私の親切はどうやらいきすぎた自己犠牲らしい。 言われるまで気付かなかった。 自分を大切に、と言われてもピンと来ない。 理想の自分であろうとするのが自己犠牲だというのならどうしたらいいんだろう。
コメント機能があるのをコメントをいただくまで知らなかった。 だから私は「スキ」に色々なきもちを込めてポチポチしてました。
私は貴方の中にいますか? その他大勢としてそこにいるのであれば居なくなってもきっと気付かない事でしょう。
自分に置き換えたら「それって愛なのでは」と思う事も人によっては違うというのがとても面白くて、さみしい。
いつだって置いて行かれて、いつだって自分を後回しにして。 限界にならないとそれに気づくこともできない大人になってしまった。
自分の好きなものを人に共有するのがすこし気恥ずかしい。 苦手なものは言えるんだけどなあ。
火を灯すのは誰かなのに消すのはいつも自分の意志だったなあと、ふと気づく。 そう考えると私の心のろうそくを搔き消した元親友はある意味すごいひとなのだな。あなただけだよ。消せたのは。 許せないね。
私にとっての好きは等しく温かいものでもあり、たやすく消えてしまうものでもある。 最初はマッチの火くらいささやかな、ぬくもりのイメージがある。
ときどき別のSNSはもうだやだ~!って嘆くときがあって、その事を大好きな人間から「鳴き声みたいなもんだと思ってる」って言われて笑ってしまった。 そうだね。
他人が抱く不遜さや傲慢さを好ましく感じる事がしばしばあるのに対し、己が同等の振る舞いや考えを持つことに嫌悪感がある。 おそらくそれが自己評価が低い、と見えるのかもね。