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並行世界へ その1

小学校6年生の春、わたしは初めて広島市内の学校に通うことになった。
我が父は転勤族と呼ばれるサラリーマンで高卒叩き上げ社員だったので、子どもが3人もいると県内のみとはいえ転勤を繰り返して職能を高めるしかなかったのだ。

ただし、そこそこの温情はある企業で年度途中に転校せよなどという無茶はなかったのはありがたかった。
広島市内の企業関連総合病院で生まれたものの、広島市内に住むのは初めてだった。

住む場所は旧市内といって合併を繰り返して大きくなる前の街だったのと、原爆の被害が小山のおかげで(本来の意味での陰である)少なめで済んだという場所がら、活気ある商店街がしっかり機能していた街だった。
倒壊や延焼を免れた家屋があるということは、自然住む人の中にもエリート意識のある人がおり、学校生活にもそれなりの影響があった。

それまでは、人数は1,500人以上いるが牧歌的な学校に通っており、児童会とやらの選挙でも公約が「宿題を無くす!」とか「遊びの時間を増やす!」とかの何も考えなくてもできる主張が大いに支持されるような雰囲気だった。

ところが、新6年生の学校では児童会に立候補するのは私立進学校に入学を目指すので内申書の記入事項がよくなるための活動の一つだった。
更に、たかが児童会ではあるけど高度に政治的な活動は全く自治的ではなく、明らかにわたしの意識は彼らの社会から逸脱していた。

菊を育てるとか得意なことを熱心にするが他はわりと放任に近い担任から、スマートでドライだけど進路保障のための方策はたっぷり用意してる担任へと変わったのも大きな変化だった。
新しい担任は教職員の中ではいつも身なりをスマートに整えて仕事が速く居残りなどさせないしない、キャリアが素晴らしく形成された女性だったのも大きな刺激だった。

我が母からはいつも「手に職をつけろ」という意味のことを言われて育っていた。
医師とか弁護士とかはまあ途方もなく賢い人がやる仕事でたどり着けないだろうが教師とか薬剤師とかは努力でなんとかなるのではないか?と考えていた。
要はこういう仕事ならしてもいいという先生に初めて会ったのだ。

学校全体は何らかの生活向上に向けての活動が隙間なく詰めてあり、始業時間には体育服に着替えを終えて運動場でランニングをしなくてはいけない毎日が始まった。

あの学校は凄かった。
朝のランニング(なんか知らんけど太陽の時間と言ってた)
大休憩なのに音楽に合わせて縄跳び(BGMはマッピーの音楽)
給食前には目の体操(もちろん動きを指示するBGMつき)
給食後には歯磨きの音楽がかかる。
そうかといえばお昼の放送で小学生の癖に流行りの洋楽とかかけていた。
放送委員会は花形という文化度の高さも好きだった。

午後は比較的に緩やかだったけど、あの学校に通って従っていたら、基礎体力は充実していた。
でもいかにも体育会系ではなくて、運動会はゴールデンウィーク明けにある適当な感じで、大声で叱る先生はいなかったし、練習も少なかった印象がある。
小学生には当然部活動はなく、先生たちはそんなに遅くまで仕事をしてなかった。

広島市内には少年スポーツ活動としての児童会(こちらは地域の児童活動)がとてもとても発達していた。

担任の先生たちは学力充実の方に力を入れていて、授業が面白いかどうかは別として、本当にしっかりしていた。

何をしたいかよりも、こんだけいいもの詰め込んであるからタラタラやっててもルールから逸脱しなければそれなりの効果があるぜ、という生活は学校生活の枠組みにさえ嵌っていれば楽に過ごせるタイプのわたしにも凄く凄く性に合った。

だけれども、粗野で何にもできないと思われていた(放任前担任のおかげで分数の割算を習ってなかったw)わたしがそれなりの力を発揮するようになると、私立進学希望者からちょっと邪険に扱われるようになった。

いわく「声が大きくてうるさい」「できた!とかすぐ言って他人の気持ちを考えない」酷いのになると、「転校していった〇〇さんは八重樫選手の姪で、王選手と会ってサインしてもらったこともある人格者だったのに、転入してきたあんたときたら…」などという言いがかりまで。

面倒くさい。
そんなこと言われてもなぁ。

そして、新たな友だちを求めて出会ったのが綾ちゃん(仮名)だった。


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