反抗期 する側とされる側と

わたしは中二頃が1番反抗期が酷かった。
なぜなら、両親が社宅暮らしをやめて新築の家を建て、広島市内から東広島市に引越ししたからだ。

広島市内では、すごく便利がよく進路先もたくさんあり文化的な生活が送れた。
公共交通機関が子どもでも分かりやすくすぐに利用できて安かった。
公共施設だって、政令指定都市になって10年程だったのでもあって、充実していた。

東広島市は賀茂郡の大きく4つの町が合併して5年ほど経っていたが、地方中核都市の郊外の街としてはまだまだ発展していなかった。
家は綺麗だったけど周りはすごく田舎で、近くに公衆電話もなかった。
日常品を扱う商店はあったので、そこから引越の連絡などをさせてもらった。
薄暗い商店の店主のおばさまが時計で通話時間を計って、「40円」と無表情で掌を出すような初日のイメージが怖かったのかもしれない。

転校はよくしていたから何ということもなかった。
ただ、わたしがもらったお下がりの制服のジャンスカはサージという織り方の布地で、当時の広島の田舎では短ランの上着やボンタンズボン、長いスカートを誂えるのに使われた高級布地で、別に長い訳でもなかったけど、不良扱いだったのだ。
いやいや、全くもって不良どころじゃなく、どちらかと言えば目立たない規則違反することもない逆に学校という枠に順応していくタイプだった。
郊外の中学校では髪の毛の長さが肩についたら必ず結ばなくてはならず、紺か黒のゴムでと決められていたけど、初日は知らずにボブの伸びたままの髪で行ったからか、それも不良判定される一因だった。
ただでさえ校内暴力や非行で荒れた学年だったので、便所のスリッパの鼠色みたいなのを履かなくてはならず、やたらと集会があって体育館の床に正座させられる学校だったのが、もう辛い。

学校帰りに図書館(当時は公共の図書館がなかった)や本屋に行くことができず、家に帰っても楽しみはラジオとテレビくらいしかない。
市内には映画館もなく選択肢が本当に少なかった。
部活動にも参加しなくてはいけないので、すごく面倒くさかった。
なぜこんなところに住むことにしたのだという不満でいっぱいだったので、徐々に親に反抗する土台が固まってしまったのだ。

今考えると、天国と地獄の差がある環境で反抗期が重なっても仕方ないと思う反面、家を建てたばかりの親、しかもより家に長くいる方の母親ばかりに反抗していたのが申し訳ない。

反抗と言うか非行なんだけど、皆が抱くイメージに合わせて髪の毛を脱色しようとしたり、突然髪の毛をツンツンのベリーショートにしたり、学生鞄を潰そうとしたり、先生たちの授業がつまらない時にダラダラ喋らずにもう少しまとめてくれと主張したり(結構真面目に授業を聴いてるなw)そんなことをした。
更に、基本は真面目なんだが学年一の可愛さでアイドルのような別クラスの女子と連むことにした。
珍しくその子から声をかけられて気に入られたからだ。
部活動は、その女子の入っていたできるだけ走らなくてよくて大人しそうな(これも大真面目w)合唱部を選んだ。

後で分かったことだが、彼女の家は夜の酒場を営んでおり、雛には稀なお父さんの職業が分かりにくいけど現代的な自由な家庭で、彼女自身が自由で可愛いすぎたので田舎ではつきあえる同性がほぼいなかったのだ。
わたしは特に家のことなど気にしないし知ろうともしないし、自由さ具合は普通だったと思うがそれでも当時の街では開けていたからかもしれない。
彼女の誘うままに中学生ながら部活動を時々サボって喫茶店に通ったり、唯一開けた商業ビル(ヤングヒルという名前だったw)を見てまわったりした。
お金は当然お小遣いでは足らなかったので、母親の隠している財布からちょいちょい抜くようになった。
彼女はお金には不自由してなかったので、家が貧乏であることを知られたくなかった。

彼女の家に遊びに行った時にも、彼女の母親から「ずっと仲良くしてね」と頼まれた。
彼女の家の誰にでも噛み付くしすごく吠えるという犬にも、吠えずに尻尾を振って歓待されたのも気を良くした。


よくよく考えれば、よりにもよって家を建てローンを返し始めたその時期に、お金のことで非行に走るとかは本当に酷い。
酷すぎる。

母親も娘がただ言うことを聞かないだけでなく、財布からお金が無くなるのだから反抗期もここに極まれり。

まぁ、父親が翌年から週末は苦労なく帰ってこられる程度の距離の単身赴任をする前に、12月に入った時期に徹底的に叱られたし母親に悪いとは思っていたので、彼女とのつきあいはそこそこにする、という約束をしたのだった。
まだあの頃の田舎だったからなんとかなったけど、子どもにお金が稼げる時代になっていたら恐ろしいことになっていただろう。
実際に数はごく少なかったけどそんな子もいた。

決意のほどを二学期の反省と3学期の目標というプリントの空欄を「真面目にする」という馬鹿馬鹿しい文章力のなさ全開で埋めて公言した。
二学期の担任の先生は三者面談の時に笑っていた。
母親はまだ信じられないという顔だったが。

そこからは本来の規律的な生活に戻り、部活動も割と真面目にやったのだった。
授業はきちんと聞いていればそこそこ分かる時期で、宿題を我慢してやりさえすれば苦労なくテストもクリアできていた。
英語の先生が会話重視でとても授業がうまかったのも救いだった。
特別なことはしなくても、いつも笑ってお洒落に過ごしていて、ああいう歳の取り方をしたいものだと思うお手本だった。
できるだけ広島市内に通う高校生活を希望していたけど、私立は物足りなく公立は学区制で合格率が全体の5%しかなく断念。
しかしまあ、自分の実力だと余裕で過ごせそうな地元の高校に合格したので、周りも一安心。

友だちではあったが、以前よりは疎遠であった彼女から「お金はかからないから卒業祝いをしよう」とご招待を受けたら、彼女の母親の夜のお店で、なぜか知らないけど学校の先生たちも呑んでて、びっくりしたのを覚えている。
彼女は第一志望の公立に不合格で、当時3月末まで試験をしていた全寮制の江ノ川高校を受けるしかないと嘆いていたのが、第一志望の合格辞退者が出て、2次募集試験を受けたら合格したのだった。
お互いに遠慮なく、ずっと溜まっていたお互いの話をたっぷりして、8時を過ぎたから帰ろうとしたら「送っていくし、お家にも電話してあげる」と言われた。
そこからなんとビールやウイスキーの水割りを出されて、先生たちの前で呑むのを躊躇っていたが、結局「見てない、見てない」という言葉によって、呑みながら話を続けたのだった。

こうして短期だけど濃いわたしの反抗期は終わった。
今は反抗期に反抗される立場である。

公正に平等に「おはようございます😃」とか「よく頑張ったね」とか
声をかけているつもりだが、無視されることもある。
「〇〇したいのに、なんでしたらダメなん?」
と強く言われることもある。
「元々決まってるのを選んじゃったし、決まってることに従うって書類に買いちゃったから仕方ないね」
と冷たく答えることもある。
「理不尽なやり方は変えようとしてもいいけど、あなたの言うそれは我が儘だねぇ」
と言ってしまうこともある。

ただ、これで友だち感覚で軽くルールを変えるようでは、何のために決められたことかは考えようとしない。
若さは破天荒だし、考え足らず、経験足らずなのが当たり前だ。
大人は黙って嫌な壁になることも必要なのだ。
黙って見守るのは辛いけど、自分も親世代からしてもらったことだ。

さて、何年続くやら。
体力保てばいいなぁ。


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