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表と裏と

因島市という街が昔、あった。

今はもう尾道市の一部となっているが、昔から知っているあの豊かだった島が、橋で繋がったとは言え尾道市の一部になっていることに何かしら寂寥を感じずにはいられない。

因島はわたしの母の出身地である。
因島出身で藤原といえば当時は特定が難しい姓名の一つで、他には村上と岡野とが三大勢力である。

そう。

因島は古には海賊とも水軍とも呼ばれた人々が、瀬戸内海の難所を押さえていた良港が多く存在した昭和の間は造船の街であった。

母の実家は、わたしが物心ついた当時は伯父の家となっていた。
本当に中心だった中央商店街の通りから商工会議所へと向かう通りとが交わる不思議な交差点の近くだった。

伯母は生きていれば102歳。(現況は残念ながら全く分からない)
伯母は商売の才があり、家庭状況からするとよく勉強ができたのだろう、女学校を出ていた。
結婚を機に日立造船での事務の仕事は辞めたが、結婚したパートナーも商才と勢いがあった。
実家が火災で大変だった時に、その家を建て直し、近くのパチンコ屋を所有し、母と家族はその家で暮らしていた。
元々の家業は祖母が営む八百屋だったし、その後も家業が少しは続けられたのは伯母のおかげである。
元の生活以上に豊かに暮らせていたと思うが、家族にとって問題だったのは、伯母のパートナーが北朝鮮系の人だったことで、末の妹である母は全く気にしないくらい良く(親切に)してもらったと話すが、家族は相当揉めたらしい。

伯母は結局その住まいを出て行かざるを得なかった。
伯父は伯母のおかげで大型バイクを乗り回しあちこちツーリングして、酒を飲んでは大暴れしていたらしいが、結婚を機に実家を建具屋に変えて伯母を追い出してしまった。
わたしはその後の伯父しか知らないので、強面の伯父さんだなぁ、としか思わなかったのだけども。

伯母のパートナーさんはお金持ちだったので、無理しないで他所に住もうということにしたようだ。

真向かいに、後に暴力団の事務所と分かる建物と花輪屋さんがあった。
同じ筋の並びには、松竹の映画館と履物屋さんがまだ健在だった。

わたしが生まれたすぐ後に死亡した祖母はいないものの、歳の離れた(干支で言えばひとまわり)末の妹である母は比較的どの兄弟とも仲が良かったため、実家にも盆休みや彼岸にはお仏壇に線香を上げに訪れていた。
建具屋さんである伯父は実家を建て増ししたらしく、わたしが覚えている範囲でもすごく面白い建物だった。

まず、入り口はガラス戸である。
建具屋さんだから宣伝も兼ねていたのだろう。
だいたい最新のサッシが入り口の4間全面に嵌め込んであった。

次に、家の中に軽トラが置いてあった。
一階が駐車場を兼ねていたのだ。
中心地に近い場所だったし元は八百屋なのだから駐車場は家の中にするしかなかったのかもしれない。
防犯の意味もあるし。

更に、入り口を開けると、建具を製作する機械が入った所のの右手に並べて置いてあった。

今の木材加工やガラス加工はさほどスペースを取らないのだろうが、サンダー1つとっても酷く大きくて重量が凄かった。
かなり厳つい機械が5台くらいあった。

そして業務用の掛け電話、矢鱈と音の大きいトランジスタラジオ、一畳くらいの図面をひいたり商談をしたりする台。
開業時に祝いでもらったのであろう掛け時計(ネジを巻くタイプ)。
もちろん全て土間である。
小上がりくらいの台所があり、5人家族である我が家が訪ねればすぐにいっぱいになるその台所で、いつも義伯母さんは甘いコーヒーか三ツ矢サイダーかどちらがいいかを尋ねてくれた。
テレビは小さな赤枠の松下製で、NHKもUHFチャンネルで映る電波状態だったのを思い出す。
民放でも4つチャンネルが映るのが普通だったので、驚いたのを覚えている。

長居ができる状況ではないので、直ぐに2階の仏間に移動して線香を上げたのだった。



あー、なんかむちゃくちゃ思い出してきたので、続きも書きたくなった。
2階に上がるのも面白かったのだ。
やっぱりこういうのを書いている方が楽しい。

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