47.アジア・太平洋戦争の展開

本時の問い「アジアの人々は、日本の戦争をどのように見ていたのか。」

第46回目の授業はアジア・太平洋戦争の経過について扱います。本時の問いは「アジアの人々は、日本の戦争をどのように見ていたのか。」でしたね。

アジア・太平洋戦争

まず、教科書で太平洋戦争と呼んでいるこの戦争は、アジア・太平洋戦争と呼ぶ方が実態を表すのにふさわしい言葉です。太平洋戦争だと日本が太平洋の向こうのアメリカと戦った戦争だというのはわかりますが、実際には日中戦争は続いていますから、中国を相手に戦っていますし、欧米の植民地である東南アジア、南アジアでも戦っています。そう考えると、この戦争はアジア・太平洋戦争と呼ぶ方がいいということをわかってもらえると思います。また、第二次世界大戦という人もいますが、この用語は主にヨーロッパを戦場にドイツ・イタリアとイギリス・フランス・ソ連・アメリカが戦った戦争です。

緒戦の勝利は国民を熱狂させた

日本は開戦から半年ほどのあいだに、東南アジアから南太平洋にかけての広大な地域を制圧しました。この勝利に国民は熱狂しました。日本は、この戦争をアメリカ・イギリスの脅威に対する自衛措置としていました。それであれば、東南アジアの油田などを確保したのですから、これで目的達成、戦争を終えても良かったのです。しかし、日本が掲げた「大東亜共栄圏」の建設という、欧米の植民地支配からアジアを解放するというスローガンに縛られて、戦域が拡大していきました。

日本の戦争はアジアの解放を目的とした戦争だったのか

1941年11月20日、大本営政府連絡会議で「南方占領地行政実施要領」が決定しました。この史料から考えてみましょう。

第一 方針
占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス 占領地領域ノ最終的帰属並ニ将来ニ対スル処理ニ関シテハ別ニ之ヲ定ムルモノトス
第二 要領
(中略)
二、作戦ニ支障ナキ限リ占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモノトス 占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ムモノトシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則トス
(中略)
七、国防資源獲得ト現地自活ノ為民生ニ及ホササルヲ得サル重圧ハ之ヲ忍ハシメ…
(以下略)

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120152100、11月20日 南方占領地行政実施要領 大本営政府連絡会議決定(防衛省防衛研究所)

方針を読むと、占領地に対して重要国防資源の獲得や作戦軍の自活確保とあり、この段階では戦争遂行に必要な資源や兵士の食糧などの確保が重視されていたことがわかります。また、要領の二からは、占領軍が重要国防資源の獲得およびその開発を促進する措置を、作戦に支障のない限りでとるとされており、要領の七からは、国防資源の獲得という目的のためには、現地住民の生活に与える重圧については我慢させるとしています。この「要領」からは、日本が戦争遂行のために必要な資源を獲得するために戦争を行ったと読み取れます。資源獲得については、次の資料も興味深いです。

このイラスト「大東亜共栄会議」には、「東亜諸民族が一體となり、巨大なその資源をめいめいに持ち寄って、あくまで共存共栄の経済を建設しよう」とあります。「共存共栄」のためとここでは言っていますが、実際のところは獲得した資源は日本の戦争のために動員されていったのです。

さて、それでは、資源獲得のためには現地の人々に重圧を与えても構わないという方針のもとでおこなわれた日本の戦争を、アジアの人々はどのようにとらえたのでしょう。教科書から考えてみましょう。

1943(昭和18)年11月、東条内閣は、占領地域の戦争協力を確保するために、満州国や中国(南京)の汪兆銘政権、タイ・ビルマ・自由インド・フィリピンなどの代表者を東京に集めて大東亜会議を開き、「大東亜共栄圏」の結束を誇示した。しかし、欧米列強にとってかわった日本の占領支配は、アジア解放の美名に反して、戦争遂行のための資材・労働力調達を最優先するものであったので、住民の反感・抵抗が次第に高まった。

『詳説日本史』(山川出版社)364ページ

先ほど見た「南方占領地行政実施要領」の方針のとおりにおこなわれた日本の占領支配は、資源確保を優先し住民の反感や抵抗を高めたことがわかります。

それでは、次に日本が占領地で何をしたのか。それを教科書から探して、下線を引いてください。

・東南アジアの占領地で、日本語学習や天皇崇拝・神社参拝を強要した。
・タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設、土木作業などや鉱山労働への強制動員をおこなった。
・シンガボールやマレーシアでは、日本軍が多数の中国系住民を反日活動の容疑で殺害した。
・中国では、中国共産党が華北の農村地帯でゲリラ戦を展開したのに対し、日本軍が抗日ゲリラに対する大掃討作戦を実施し、一般の住民にも多大の被害を与えた。

ミッドウェー海戦とガダルカナル島をめぐる攻防戦

戦争が始まって半年ほどのあいだに広大な地域を制圧した日本軍ですが、それはミッドウェー海戦を機に変わります。1942年6月、ミッドウェー島沖で日米の海軍機動部隊同士が戦い、日本は主力空母4隻とその艦載機を失う大敗北を喫し、海上・航空戦力でアメリカに対して劣勢となり、戦局はこれを機に大きく転換しました。教科書ではこのように説明していますが、ミッドウェー海戦後も空母を含めて日本陸海軍の総合戦力はアメリカ軍をやや上回っていたようです。しかし、1942年8月から始まった、ガダルカナル島をめぐる攻防戦で、日本は海軍の艦艇や航空機を多数失い、対するアメリカは、戦争経済が本格的に稼働し始め、戦力で日本に大きな差をつけ始めました。このことは、吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)に書いているのですが、そのため「ガダルカナル島をめぐる攻防戦は、アジア・太平洋戦争の最大の転換点となった」としています。教科書ではミッドウェー海戦が戦局を大きく転換させたとしていますが、ガダルカナル島をめぐる攻防戦についても知っておきましょう。

さらに付け加えると、この攻防戦での陸軍の戦死者2万1000名のうち、直接の戦闘での戦死者は5000~6000名で、残りは補給が絶たれた状況下で生じた餓死者だったそうです。ガダルカナル島に物資を輸送するため出された船の大部分は失われました。それは当然、他の戦地にも影響を与えます。

東条内閣の崩壊

1943年9月30日の御前会議では、防衛ラインを後退させることが決まりました。この防衛ラインを絶対国防圏と言いました。

1944年7月、マリアナ諸島のサイパン島が陥落することで、その絶対国防圏の一角が崩壊しました。その責任を負う形で東条英機内閣は総辞職し、代わって陸軍大将の小磯国昭が首相に就任しました。日本がポツダム宣言を受諾するまでの残り1年については、次とその次の時間で扱います。

今日はここまでとします。


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