39 満州事変の勃発

本時の問い「政党内閣は,なぜ関東軍が起こした満州事変を止められなかったのか。」

第39回目の授業では、第2次若槻礼次郎内閣(与党:立憲民政党)の時に起きた満州事変について扱いました。本時の問いは「政党内閣は,なぜ関東軍が起こした満州事変を止められなかったのか。」でしたね。

満州事変は日本と中国の戦争

1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が関東軍によって爆破されます。それを中国側のしわざとして関東軍は軍事行動を開始します。このことを満州事変と呼んでいます。事変という今の私たちにはなじみの薄い言葉が使われていますが、この出来事は戦争です。

となると、なぜ戦争と呼ばなかったのだろうとか、そもそもなぜ関東軍は満州事変を起こしたのだろうという疑問が浮かんできます。1937年には日中戦争がはじまりますが、この戦争は偶然の事件が大きな戦争に発展しますが、満州事変は関東軍が起こしたものです。その目的は何だったのでしょう。

なぜ関東軍は満州事変を起こしたのか

その背景の1つに中国で高まっていたナショナリズムがあります。

1928年、国民党の北伐が完了し、中国全土の統一がほぼ達成されると、中国では不平等条撤廃、国権回収を要求する民族運動が高まります。列強の権益の回収を求める運動の高まりに、日本では南満州権益の維持が難しくなるという意見が強まっていきました。

当時の外相は対中国内政不干渉の立場をとる幣原喜重郎です。軍や右翼は幣原外交を「軟弱外交」と非難し、「満蒙の危機」を叫ぶ声が強まっていきました。

危機感を強めた関東軍は、満州を軍事占領することで南満州権益の維持を図ります。これが満州事変を起こした背景の一つです。

しかし、満州事変で関東軍は満州全域に戦線を拡大しています。南満州権益を守るというだけであれば、それは必要以上の行動とも言えます。

なぜ満州全域の軍事占領をめざしたのか

関東軍は満州全域を占領することで、満州の資源を手に入れ総力戦体制を構築すること、そして対ソ連の軍事拠点を築くことを考えていました。満州事変を計画した中心人物である関東軍の参謀石原莞爾は、現代の戦争が総力戦であること、アジアで日本が主導権を握るためにはソ連との戦争が避けられないこと、そののちには西洋の覇者アメリカとの「世界最終戦争」が戦われることになるので、それに備えて満州を領有することを主張していました。石原は第一次世界大戦で敗戦したドイツへの留学を命じられます、そこでドイツ敗戦の原因を総力戦体制を構築できなかったことと考えます。ですから、資源に乏しい日本が総力戦体制を戦い抜くためには資源の確保が重要と考えたのです。それが、満州全域を占領した理由です。

補足

授業ではふれませんでしたが、関東軍が満州事変を起こした背景には、国家改造を実現するために、政党内閣に揺さぶりをかけるということもあります。

事変の拡大に対し第2次若槻内閣はどのように対応したか

第2次若槻内閣は不拡大方針を発表しますが、関東軍は無視して軍事行動を拡大します。政府の言うことを聞かずに軍が暴走する状況を、国民はどのように見ていたのでしょうか。当時の世論やマスコミは軍の行動を熱狂的に支持します。このことについては、当時の新聞記事を読み、記事の内容をみなさんに批判してもらいました。ある情報を知らなかったことにより、人びとは満州事変に批判的な考えをもたなかったのかもしれません。

第2次若槻内閣は総辞職

政府の不拡大方針にもかかわらず、満州全域に戦線を拡大した関東軍。若槻内閣は事態収拾に自信を失い、総辞職してしまいます。次の首相は、野党立憲政友会の総裁である犬養毅が選ばれます。

満州国が建国される

犬養毅首相は中国との直接交渉によって事変の解決を図ります。しかし、関東軍は満州の主要地域を占領後の1932年3月に清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として満州国を建国させます。これは満州に住む人々が民族自決の行動により建国したとされていますが、実際には関東軍がつくった傀儡国家でした。犬養内閣は満州事変から満州国建国にいたる過程は、九カ国条約に違反しているため、満州国を認めることはできないとします。

満州事変に対しアメリカはどのような対応をとったか

アメリカは日本の行動に対して不承認を宣言します。

また、中国は満州事変に対し日本との交渉ではなく、国際連盟を解決の場としようとします。国際連盟理事会は事実調査のためにリットン調査団を派遣することにします。

満州国承認の問題やリットン調査団の調査の結果、国際連盟はどのような動きを見せるのでしょうか。続きは次回とします。

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