46.アジア・太平洋戦争の開始

本時の問い「日米交渉が決裂し、米・英に宣戦布告することになったのはどのような理由か。」

第46回目の授業は、第2次近衛文麿内閣が始めた日米交渉と政府の対応、そしてアジア・太平洋戦争が始まるまでの経過について扱います。本時の問いは「日米交渉が決裂し、米・英に宣戦布告することになったのはどのような理由か。」です。

日米交渉の開始

前回の授業で第2次近衛文麿内閣が日独伊三国同盟(1940年9月)を締結したことにより、アメリカが日本に対する経済制裁を本格化させるたことを学びました。これに危機感を感じた近衛内閣は、日米衝突を避けるため日米交渉を始めました。日本側の代表が駐米日本大使野村吉三郎、アメリカ側が米国務長官ハルです。

日ソ中立条約の締結

一方、外務大臣の松岡洋右は、1941年4月、日ソ中立条約を締結します。そのねらいは、北方でのソ連との対立を避け平和を確保しながら南進政策を進めようとしたこと、そして、日独伊三国同盟にソ連を加えることで、日米交渉を優位に進めたいとの考えがありました。アメリカはこれを警戒し、もともと消極的だった日米交渉に対する姿勢を変えるようになりました。

しかし...

ドイツは1941年6月、突如ソ連に侵攻しました。独ソ戦争の開始です。これにより三国同盟にソ連を加える松岡の構想は頓挫してしまいます。

7月2日の御前会議

独ソ戦の開始に対応するため御前会議が行われました。

御前会議
対外戦争の遂行にかかわる問題について、大本営政府連絡会議が天皇臨席のもとで開催される場合、御前会議と呼ばれた。参謀総長・軍令部総長ら陸・海軍の代表および首相・外相・蔵相・内相・企画院総裁らが出席した。

『詳説日本史』(山川出版社、p361)

御前会議では軍部の強い主張により、対米英戦覚悟の南方進出と、情勢有利の場合の対ソ戦とを決定しました。そして陸軍はシベリアなどソ連領の占領をねらって満洲に約70万人の兵力を終結させました(関東軍特種演習)。しかし、陸軍がソ連領へと攻め込むことはできませんでした。南進政策が決定したからです。

この南進政策の決定は日米関係を考えると大きな転換点となります。

南部仏印進駐が対日石油輸出の全面禁止をまねく

第2次近衛内閣は日米交渉の継続をはかり、対米強硬論を唱えていた松岡洋右外相を除くため、いったん総辞職しました。第3次近衛内閣成立直後、政府はとんでもない判断ミスをします。

それが、南部仏印進駐です。

アメリカが日米通商航海条約を廃棄して以降、軍需資材の入手が困難となっていましたが、それを打開し資源を自給するため、1941年7月、日本は南部仏印進駐を行いました。南部仏印を抑えれば、そこからイギリス領シンガポール、オランダ領東インド、アメリカの拠点フィリピンへの空爆が可能となります。第二次世界大戦でドイツと交戦中のイギリスにとって、ドイツと同盟を結ぶ日本がシンガポールを攻撃圏内に入れたことは、脅威となったでしょう。そしてイギリスを脅かすことは、イギリスと深い関係にあるアメリカにも影響を与えました。日本の南部仏印進駐に対し、アメリカの態度は硬化します。在米日本資産の凍結(イギリス・オランダも同様の措置をとります)、さらには対日石油輸出を全面的に禁止しました。

日本政府は南部仏印進駐がアメリカの態度をここまで硬化させるものだと考えていなかったようです。この判断ミスにより、日本は対米開戦へと舵を切っていくことになります。

アメリカの対応は、日本の予想を超えたものでした。日本は石油の輸入の75%以上をアメリカに依存している状況です。日本が備蓄する石油は2年分ほどしかありません。この状況を打開するには、石油を確保すべく南方への進出をさらに進めること、石油が尽きる前にアメリカに対して即時開戦するという考えが広がっていきました。

これまで対米戦争に消極的だった海軍部内にも開戦論が強まっていきました。そのような状況の中で、軍部は対日経済制裁を「ABCD包囲陣」と呼んで、日本を不当に圧迫していると国民に訴えました。

9月6日の御前会議

9月6日の御前会議では帝国国策遂行要領が決定しました。

一、帝国ハ自存自衛ヲ全フスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セサル決意の下ニ、概ネ10月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス
二、帝国ハ右ニ竝行シテ米・英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム
三、前号外交交渉ニ依リ10月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス

1941年9月6日の帝国国策遂行要領

第一に10月下旬までにアメリカ(およびイギリス・オランダ)に対する戦争準備をすること、第二に日米交渉を続けること、第三に日米交渉を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(英蘭)開戦を決意することが決まりました。

東条英機内閣の成立

日米交渉は妥協点を見出せないまま10月半ばを迎えます。日米交渉の継続を求める近衛首相に対し、東条英機陸軍大臣は交渉打ち切り・開戦を主張します。その結果、第3次近衛内閣は総辞職し、東条英機内閣が成立しました。

木戸幸一内大臣は、東条英機を首相に推挙する際、9月6日御前会議の決定を白紙還元することを条件にしていました。そのため、即時開戦を主張する東条首相の下でも、日米交渉は継続しました。

アジア・太平洋戦争の開始

11月5日に御前会議が開かれました。そこで決定した帝国国策遂行要領です。

一、帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此ノ際対米英蘭戦争ヲ決意シ左記措置ヲ採ル
(一)武力発動ノ時機ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス
(二)対米交渉ハ別紙要領ニ依リ之ヲ行フ
(中略)
二、対米交渉ガ十二月一日午前零時迄ニ成功セバ武力発動ヲ中止ス...

1941年11月5日の帝国国策遂行要領

12月初旬の開戦に向けて陸海軍が「作戦準備ヲ完整」することが決まった事を受けて、例えば海軍の艦船部隊では平時状態から戦時状態へと移行しました。それと並行して日米交渉も続けられます。ただ、12月1日という期限が決められました。

アメリカは日本への強い不信とイギリスや中国との連帯感を維持するため、日本と戦争になっても仕方がないと考えるようになりました。そして、11月26日、ハル=ノートを日本政府に提出します。その内容は日本軍の中国および仏印からの撤兵などを要求する日本にとっては厳しいものでした。これを受けて、12月1日の御前会議では対米交渉を不成功と判断し、米・英に対する開戦を最終的に決定しました。

1941年12月8日午前2時15分頃(日本時間)、日本陸軍は英領マレー半島に奇襲上陸しました。時間はさかのぼって11月26日、千島列島エトロフ島の単冠湾に集結していた海軍の機動部隊がハワイに向けて出航し、真珠湾を奇襲攻撃したのは、陸軍の上陸作戦のおよそ1時間後でした。ここにアジア・太平洋戦争が始まります。


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