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40 政党内閣の崩壊と国際連盟からの脱退

本時の問い「日本はなぜ国際連盟から離脱したのか。」

第40回目の授業は、1932年に起きた五・一五事件と、翌1933年に国際連盟からの脱退を通告したことを扱いました。本時の問いは、「日本はなぜ国際連盟から離脱したのか。」でしたね。

右翼・軍人による国家改造運動が活発化

立憲民政党を与党とする浜口内閣は日本経済の再建のために金輸出解禁を実施しましたが、深刻な不況をまねく結果となりました。労働争議や小作争議の件数は1931年に激増し、政党政治に対する批判が強まりました。また、財閥は金輸出解禁が長く続く事はないと考え、円売りドル買いに走り、これも批判されます。

危機に対応しきれない政党内閣、利益確保に走る財閥に対し、右翼・軍人らの間で現状を変えて国家改造を実現しようという動きが見られるようになりました。政党内閣を打倒し軍部政権の樹立をめざす動きが見られるようになりました。

桜会による国家改造運動

1931年、陸軍の青年将校の秘密結社桜会(中心は橋本欣五朗)が、右翼の指導者大川周明の協力と一部陸軍首脳部の賛同を得て軍部政権樹立のクーデタを計画しましたが、未遂に終わります。これを三月事件と言います。桜会は十月にも満州事変に呼応して国内改造をおこなおうと計画しますが、これも発覚して失敗に終わります。(十月事件)

あいつぐテロ計画の発覚に対し、立憲民政党の第2次若槻内閣は危機感を強め、党の内部には立憲政友会との協力によって危機を乗り切ろうという動きもあったほどでした。(その動きは井上準之助蔵相や幣原喜重郎外相の反対で実現はしていません。)

血盟団事件

1932年2月におこなわれた総選挙の前後に血盟団事件がおこります。右翼の井上日召を中心に一人一殺主義を掲げる血盟団員が、政財界の要人を暗殺した事件です。この事件で、金輸出解禁の責任者で前蔵相の井上準之助とドル買いによって批判された三井財閥幹部の団琢磨が暗殺されました。

五・一五事件

1932年5月15日、井上日召と連携していた海軍の青年将校が、首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を射殺する事件がおこりました。この事件を五・一五事件と言います。

あいつぐテロ事件は何を変えたのか

ここまで桜会の国家改造運動、血盟団事件、五・一五事件と軍部や右翼によるテロ事件を見てきました。あいつぐテロ事件は何を変えたのでしょう?

犬養毅の後継首相に選ばれたのは穏健派の海軍大将斎藤実でした。

このことは、第二次護憲運動により加藤高明が首相になって以来、およそ8年間にわたって続いてきた政党内閣が終わったということです。

教科書では史料『木戸幸一日記』1932年5月17日をあげて、「陸軍が政党内閣の継続に強く反対したため、元老西園寺公望はやむなく、穏健派の海軍大将斎藤実を後継の首相に推せんした。」と説明しています。政党内閣が崩壊し、政治の主導権を軍部が握る転換点だったのです。

『木戸幸一日記』1932年5月17日の史料の内容は次のような内容です。陸軍の実力者永田鉄山のことばです。「若し政党による単独内閣の組織せられんとするが如き場合は、陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局は組閣難に陥るべしと語り…」

実際には政党勢力も主導権を取り戻そうとはするのですが、このあと終戦まで政党人が首相に選ばれることはありませんでした。

日本の国際連盟脱退

犬養内閣は満州国を承認しませんでしたが、軍部・政党・言論界のあいだでは、満州国を認めるべきだとする声が高まります。斎藤実内閣は、1932年9月に日満議定書を結び、正式に満州国を認めました。これはリットン報告書が公表される前に満州国の存在を既成事実化するねらいがありました。

授業では資料集を使ってリットン報告書の主な内容を確認しました。

1.中国は基本的に統一にむかいつつある
2.満州事変以降の日本の軍事行動を自衛とは認めない
3.「満州国」はその他の民族の自発的意志によって成立したものではない
4.中国の主権のもとで満洲に自治政府を樹立することを提案する
5.中国は、満洲における日本の経済的権益に配慮するべき

内容を実際に確認すると、リットン報告書が柳条湖事件から始まる日本の行動を否定しつつも、日本が満洲事件を起こした背景にある「満蒙の危機」への理解を示していることがわかります。ですから、リットン報告書で日本が全否定されて、それに怒った日本が国際連盟を脱退したという理解は単純です。確かに教科書でも説明しているように、満州国の独立を認めないような解決案は断じて受け入れられないとする共同宣言を132の新聞社が発表し、国際連盟脱退の気運を盛り上がっていました。しかし、政府は脱退を何とか避けられないかという努力をしていたのです。

2021年の大学入学共通テストの日本史Aの第2日程の問題では、国際連盟の代表だった松岡洋右が国際連盟脱退に深く責任を感じているという新聞記事を取り上げています。

では、なぜ脱退を政府が決意したのかということについては、陸軍が熱河省への侵攻をおこなったことで、国際連盟から経済制裁を受ける可能性が強まったことを紹介しました。

国際連盟脱退の通告後

1933年3月、日本は国際連盟からの脱退を通告しました。発効は2年後です。松岡洋右代表が演説をした後で議場を去る様子が取り上げられるので、1933年に脱退したと思ってしまいますが、正確には違います。

その後、満州事変は、満州国はどうなったでしょう。国際連盟の臨時総会が開かれ、リットン報告書にもとづく対日勧告案が42:1で採択されるほど国際世論は盛上がったかにみえましたが、日本が脱退を通告すると、満洲に対する世界の関心は薄れていきました。中国は連盟での解決に期待していたのですが、それが難しくなると、日本との間で塘沽停戦協定を結び満州事変を終わらせました。

今日はここまでとします。

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