「肉吸い」 という料理がある
歴史に曰くある時上方の噺家が「肉うどんのうどん抜き」を頼んだことに端を発するというこの料理。暖かい汁に肉の旨みがさっと乗ったところにたっぷりのネギが彩りを添えるこれが最近の私の心を捕らえてはなさないのである。
すき焼きでは砂糖と醤油がうるさすぎて気が乗らず、さりとて暖かく優しい湯豆腐では肉の飢えは満たされない。そんな私の揺れ動く心の中に「ハレルヤ」の掛け声よろしく、照り輝いた汁とともに舞い降りた。それが肉吸いである。
おりしも季節は10月。夏の風が鳴りを潜め、短い秋の風が「冬物を出せ」と脅しつけてきたと思えば夏の残党が「夏物を出せ」と叱りつける面倒な季節である。温かくしても冷たくしても美味しくいただける汁物が心に優しいことは独り身の皆様にも、夜遅くに帰る皆様にもご承知おきのことであろう。
と言うわけで作ってみた。
実際に普段通うスーパーにて牛の切り落としやらすじ肉やら大袋の鰹節やら緑色の葱やらにやる気を出すための菓子に、できた後の皮算用よろしく付け合わせの卵やらをカゴいっぱいに買い込み、買物鞄に突き出た葱を見せびらかして「これから私はかの有名な肉吸いを作るのだぞ」と往来の人々に見せつけ、6畳半の小さな我が家に帰るとその重さに疲れ果てた挙句に思わず眠ってしまった。
これはいけない。
惰眠を貪り、週課たる水タバコを馴染みの店でふかしている時に涼しいからと横着心を起こして買物鞄に入れたままの肉たちの恨み言に思いをいたしていると、当初の気持ちがむくむくと起き上がってくる。今なすべきは肉吸いを吸うことである!煙を吸うことではない!そう思いながら閉店間際までたっぷりと煙を吸い込むとその足取りのまま台所に立ち始めたのであった。
血合いの混ざる筋肉を湯通しする。
湯通ししたすじ肉とたっぷりの切り落としを煮込んでいる鍋のなかに貧乏旗本の顔を忘れるような悪代官の顔の濃さも顔負けの鰹節を叩きこみ、旨みを鍋に落とし込む。これだけで味の良さを確信したところで過ちに気づいた。醤油が濃口しかないのである。そもそも上方で用いられる醤油は色が薄く塩味の追加された薄口である。関東風の色味の濃い濃口ではなかったのである。さりとて今更醤油を買いに行く気力もなし、私は諦めて濃口のボトルを手に取り、新世界のタワーに思いをやって粗塩に手をかけた。
肉吸いができた。
すすった私の口の中に多幸感が溢れた。叩きつけるような鰹節に牛の味が優しく追って醤油が丸くまとめる。ネギも鮮やかな緑と薬味の仕事を慣れた手つきでこなしてくる。さらに揚げ玉を放り込んで旨味を足すとこれまた良い。
次の日。
気だるい朝があった。どっちつかずな昼があった。憂鬱な夜があった。それでも肉吸いがいれば強くなれる理由になった。独り身の家に肉吸いの鍋があれば幸せだった。最後の一滴まで、この家には幸せがあった。
だから、また作ろうと思う。季節は移り変わる。夏もとうとう観念して秋にバトンを嫌々渡して紅葉や木枯らしを吹かして人を苦しめるだろう。それでも、コンロに火を入れれば我が家を温めてくれる、そんな肉吸いをまた作ろう。
もし次があるとするならば。
今度はうどんとそばを一緒に用意するのだ。そしてまた温まろう。肉吸いを作ればまた会えるのだから。
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