奴隷商人の憂鬱(「快不快」シリーズ完結編)

前回までのあらすじ

こんにちは。翻訳家の平野暁人と申します。
張り切って読みにきてくださった方も、うっかりクリックしてしまっただけの方も、お元気でお過ごしでしょうか。

わたくしはといえば、Twitterへの何気ない投稿に反響があったのでなんとなくnoteというやつを書いてみたら思いがけず「おすすめ」に選ばれなんだか後に引けなくなって泣きながら続きを書いている今日このごろです。めそめそ。

さて、前回の記事ではざっと以下のようなことをぐるぐる考えてみたのでした。

・「快不快」という主観が「善悪・性悪」という社会規範よりも優勢になりつつあるのはなぜか
・そもそも善悪とは弱くなったりするのだろうか
・善悪の根拠である道徳とは不変のものなのか
・男女平等化や死刑の廃止傾向を考えると、道徳とは可変的なものであるらしい
・ただし、常に矛盾を抱えたものでもあり、だからこそ変わり続けるものらしい

(詳しくは前回までの記事をお読みいただけると嬉しいです……む、無料だし!)

変わりゆく規範と変わらない心

てなわけで、「道徳」というやつは時代と意識の移り変わりを反映する生きもののようです。こうしているいまも様々な善悪の規範が見直され、当たり前だったことが当たり前でなくなろうとしているに違いありません。

そんな風に考えてみると人間は、主に尊厳や権利にまつわる意識について、いわば人道的なテーマについては、行きつ戻りつしながらもすこしずつ進歩し続けてきたように思えます。いまこうして日々思い悩みながら生きている私たちもその「進歩の歴史」の一部であると考えると、人間ってそう捨てたものでもないなあという気もしてきますよね。

ただ一方で、気をつけなければいけないこともあります。それは、道徳が見直され社会規範が変わってゆくことで、生きるのが(一時的にではあれ)たいへんになる人たちもいるということです。

正しい奴隷と正しい体罰

私たち人間はほとんどの場合、なんらかの共同体に所属し、その社会で是とされる善悪の規範をおおむね共有して、生きる上での指針としているはずです。

たとえば18世紀のイギリスであれば、多くの人が「黒人を買い付けて奴隷として売りさばき大儲けするのは良いことだ」と思っていたでしょうし、1980年代の日本であれば先生が生徒を殴りつけても「教育的指導(≒善行)」の一言で済まされていたでしょう。

では、その共同体の規範自体が変化し始めたらどうなるか。

理屈で考えれば、古い規範を捨て、あるいは修正して新しい規範に従えばよいだけなのですが、現実はそう簡単には運びません。いくらより良い社会をつくるためとはいえ、新しい価値基軸を受け入れて日々の考えかたや生きかたまで具体的に変化させてゆくのは、たいていの人にとってとてもたいへんなことだからです。

それにいま、「より良い社会をつくるためとはいえ」と書きましたが、そもそもそれが「より良い社会」を実現するための変化なのだという意識自体、変化の渦中にある同時代の人みんなが共有しているとは限らないのです。

奴隷商人の憂鬱

たとえばイギリスの黒人奴隷制度は1833年に違法化されましたが、それまで黒人奴隷貿易で儲けてきた商人たちのなかには(黒人を牛や馬と同じように売り買いすることのなにがそんなにいけないのだろう?うちでは祖父母の代からやってきた商売なのに)と本気で途方に暮れた人もいたでしょう。新しくどんな仕事をしていいかわからず、違法化後も闇で続けて最後には捕まった人もいたはずです。

また、20世紀から先生をやってきた人たちのなかには「悪いことは悪いと体に教え込まないで、教育なんかできるか!」と本気で信じて21世紀になっても鉄拳制裁を続けたあげく、ついには熱血教師から暴力教師へと転落してしまったという人もきっといたでしょう。

こういう人たちのことを、「悪いことをしていたのだから自業自得」と片付けるのは簡単です。でも、私たちが奴隷貿易や体罰は「悪いこと」だと知っているのは、それが昔のことであり、歴史が長い時間をかけて出した答えを知っているからですよね(もっとも体罰については、肯定派の方もまだいらっしゃるようですが)。

忘れてはいけないのは、奴隷貿易も体罰も、奴隷を売り買いした商人や体罰を行なった教師が個人的な信念に基づいて行ったことではなく、その当時の共同体が、少なくとも共同体を主導する権力者層が概ね是としていた道徳の範囲内で行動していたのだということです。つまり、「悪くなかったものが、悪くなった」のです。

「あなたが当たり前にやっていたことは、これからは悪いことになっていきますよ」と言われる。思えばこれは物理的にも精神的にも一大事です。混乱して、悩んで、「近ごろ生きづらい」と苦しんだり、「世の中がおかしくなってきた」と憤ったり、「昔はよかった」と過去にひきこもったりしたくなっても無理はないのではないでしょうか。

変化は速くて心は遅い

そう考えてみると、私たちがいま生きているこの時代も、いえ、この時代こそ、格別に多くの変化に、つまり混乱にさらされ続けているように思います。

前回もとりあげた女性の労働環境をはじめとする権利はもちろん、子どもの権利、性的マイノリティの権利、外国人の権利、先住民族の権利、犯罪被害者の権利、加害者の権利、途上国の権利、菜食主義者の権利、動物の生命倫理、各種ハラスメントの定義、個人主義の台頭、終身雇用の崩壊、超高齢化社会到来、環境保護とクリーンエネルギー……

近年、社会において変化し続ける重要なテーマとされているものを思いつく順にざっと羅列してみただけでも、あまりの多さにくらくらします。しかも、ほんの50年前の日本では誰も問題にしていなかったようなことがほとんどです。これほど多様で大量のテーマに関する価値規範が同時多発的に変化し続けている社会に、私たちは暮らしているのです。

ということは、単純に考えればこれほど多様で大量の価値規範をアップデートし続けてゆくことが、今の社会を生きる私たちひとりひとりに求められているということです。ひええええええ。

また、みんなが変化の渦中にあるわけですから、上に挙げたほとんどの課題についても決定的な解答はなく、特に新しいテーマに関しては過去の経験や知識の蓄積を頼りに仮説を導き出すことにも限界があります。ですから価値観をアップデートするといっても正解を入力すれば済むのではなく、リアルタイムで迷子になりながら手探りで絶えず試行錯誤を繰り返していかなくてはなりません。あわわわわわ。

でもほとんどの人間はたぶん、そんなに多様で大量のアップデートにただちに対応できるほど柔軟にも、器用にもできていないのではないかと思います。それに、ほとんどの人間はたぶん、そんなに果てしなく続く試行錯誤に平気で耐えていられるほどタフでもポジティヴでもないのではないかとも思います。

だから、多くの規範が急激に変わり続ける世界で、不安に耐えて正解を探りながら生きるのはやっぱり、多くの人間にとってすごく、すごくしんどくて、疲れることに違いありません。

耐えられない心の行き場

さて、そうやって正解の定まらない世界で変化の荒波に揉まれながら闘い続けることに心がどうしても耐えられなくなると、人はどうするのでしょうか。

よくあるのは、「社会規範が変わり続けることの正当性自体を否定する」という反応です。いわゆる「世の中の方がおかしくなってきた」と言い張るパターンですね。そこまで堂々と逆ギレしない場合でも、「私なんかは古い人間と呼ばれるかもしれませんが……」という一見自虐的な前置きをしつつ、自分の時代の考えかたをゴリ押しする人、たぶんみなさんにも身近に思い当たる人がいると思います。こういう人は、道徳の規範が長期にわたって安定している時代には「古老」として敬われるのですが、変化の激しい時代にあっては「老害」と呼ばれてしまうこともしばしばです。

次に思い浮かぶのは、「変化のリスクが少ない別の規範を探してそれに従う」というパターンです。例としてもっともわかりやすいのはやはり、宗教でしょうか。新たに入信する人もいれば、もともと信仰がある人が帰依を深める場合もあるでしょう。また、特定の宗教に限らず、自分が超越的な指導者だと思える人に心酔するケースもこれに入ります。さらにいえばマルチ商法的なものも、金銭の多寡で成功の絶対値を測ってくれるという意味で、絶対的な規範となりうるかもしれません。「不安の時代には宗教が強くなる」ともいわれますし、イスラム教の誤った解釈に基づきテロを行うような人々もその副産物かもしれません。

逃避地としての快不快至上主義

そして最後にもうひとつ考えられるのは、「なにが善でなにが悪か」という線引きの見直し自体から「降りる」という選択肢です。社会規範の変化が急激すぎてついてゆく自信がない。かといってうっかり間違った言動をとって叩かれたり、老害扱いされるのも嫌だ。宗教は入り口のハードルが高いし、当面の社会生活そのものが困難になる可能性もある……。

それならいっそ、善悪とか正悪とかいう怖くて難しい規範に沿って生きるのはやめよう。それより社会とか道徳とか他人とかにとやかく言われない世界でひたすら楽しく生きてゆきたいな……。

この長い記事をここまで読んでくださった方ならもうおわかりだと思います。

そうです。つまり、急激に変化する不安定な道徳、善悪の規範を相手取って格闘するのに疲れた人たちが反動的にたどり着いた逃避地こそが、個人の主観のみを根拠に物事を判断することが許される「快不快至上主義」だったと考えることができるのではないでしょうか。

終わりに:おまじないに頼る社会を生きる

というわけで「善悪の身代わりとしての快不快」を皮切りにひょんなことから始まったこのシリーズ()も、どうやら終わりがみえてきました。

なるほど、善悪の規範がいかに激しくゆらぐ時代を迎えようとも、快不快という主観のなかに逃げ込み、「自分にとって楽しいこと、気持ちいいこと」を善悪に代わる絶対的な基準にして生きると決めてしまえば、すくなくとも正解・不正解のジャッジからは逃れることができます

そうして心の平和を確保することができる。たとえそれがどんなに怠惰で自閉的な姿勢の上に成り立つ平和であっても、です。

してみると、「不快な思いをさせて申し訳ない」という謝罪もどきのフレーズもまた、急激な変化を続ける道徳規範と正解不正解の「圧」に耐えかねた現代人が自らの心と尊厳を守るために生み出した禁断のおまじない、なのかもしれません。

さあ、長かった本稿もいよいよ締めに入ります。およそ1万字以上を費やして、ついに「快不快が善悪に取って代わるほど強くなったのはなぜなのか」という当初の問いに戻ってくることができました。

ここまで書いてみて改めて思うことは、最初から最後までほんとうに誰でも思いつくようなことしか言っていないな、ということです。情けないような気もしますが、心にくすぶっている当たり前の考えを誰にでも伝わるよう言語化する、という試みにこそ価値があったのだろうと思うことにします。

ともあれ、投げ出したくなる気持ちをなんとか制して初志貫徹を遂げることができ、感無量です。もはや誰もこれを読んでくれなくても悔いはありません。うそです。泣いてしまいます。「スキ」してほしいです。すごくしてほしいです。でも無理ならいいです。

そしてなにより、今回はうっかり社会時評めいたことに手を出してしまってほんとうにほんとうにしんどい思いをしたので、次回からはもっと軽やかな言語エッセイ、通訳あるある、翻訳よもやま話的なものを書いてみたいと思っています。

あ、でも、言語現象を通して世の中の変化を考える、というのも好きなので、やっぱり今後もぼちぼち書いてみるつもりです。とにかく、今回がつまらなくても、懲りずにまた立ち寄っていただけたら幸いです(必死)。

それではみなさま、長きにわたりお付き合いくださり、ほんとうにどうもありがとうございました。

平野暁人


訪問ありがとうございます!久しぶりのラジオで調子が狂ったのか、最初に未完成版をupしてしまい、後から完成版と差し替えました。最初のバージョンに「スキ」してくださった方々、本当にすみません。エピローグ以外違わないけど、よかったら最後だけでもまた聴いてね^^(2021.08.29)